大村益次郎は、周防国吉敷郡鋳銭司村(すぜんじ)字大村(現・山口県山口市)の村医の村田孝益の長男として生まれました。

【咸宜園でも学ぶ】
天保13年(1842)、18才の時に、防府の蘭方医梅田幽斎に医学や蘭学を学びました。
後に随一の蘭学者といわれた大村ですが、スタートは意外に遅いものでした。
翌天保14年(1842)4月、医師になるためにも、儒学が必要との梅田幽斎の勧めで、豊後国日田の広瀬淡窓の門下となり、弘化元年(1844)6月まで、咸宜園(かんぎえん)で学びました。
当時、咸宜園は、日本最大の私塾といわれ門弟も4000人とも言われています。咸宜園の咸宜とは「みなよろし」という意味です。
高野長英もここで学んだことがあります。
右の大村の写真は国立国会図書館所蔵です。
【適塾で学ぶ】
弘化3年(1846)、大村が22歳の時に大坂に出て緒方洪庵の適塾に入門しました。
適塾は、当時、最高の蘭学塾で、入門者は3000人を超えているといわれ、ここで学んだ有名人は、橋本左内、福沢諭吉、大鳥圭介、長与専斎(ながよせんさい)など綺羅星のごとくいます。大村は、 適塾在籍の間に、長崎に1年間遊学し、かつて適塾の塾頭であった奥山静淑(せいしゅく)に教えてもらっています。
そして、嘉永元年(1848)に適塾に戻り、入門後3年目にして適塾の塾頭をつとめています。
写真は、大阪市中央区北浜に残る適塾です。重要文化財に指定されています。
嘉永3年(1850)、父親に請われて帰郷し、医者を開業しました。 その翌年、隣村の農家の娘琴子と結婚しました。
しかし、地元ではあまり評判のよい医者ではなかったといいます。
【宇和島藩に出仕】
嘉永6年(1853)、ペリー提督率いる黒船が来航するなど、蘭学者の知識が求められる時代となり、緒方洪庵を通じて、伊予宇和島藩から要請があり、大村は100石で召抱えられることになりました。
大村は、宇和島藩で蘭学の講義と西洋兵書の翻訳を行いました。そして、安政元年(1854)から安政2年(1855)には長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行いました。
長崎へはドイツ人医師シーボルトの弟子であった二宮敬作が同行し、敬作から、シーボルトの娘で産科修行をしていた楠本イネを紹介されました。
その後、イネは二宮敬作とともに宇和島にやってきました。イネは、大村と同居し、その教えをこいながら助手をつとめました。
大村は、楠本イネに対して特別な感情をもったと言われています。
イネは、後年、大村が襲撃された際、蘭医ボードウィンのもとで懸命に大村を看護し、最期を看取ったそうです。
さて、大村益次郎は、長崎から宇和島に帰ると、軍艦の設計を行い、日本で2番目の軍艦建造に成功しています。
【江戸で活躍】
安政3年(1856)4月、大村は、伊達宗城の参勤交代に随行して、江戸に出府します。
そして、江戸で 「鳩居堂」 を開塾して蘭学・兵学・医学を教えました。この塾では、長州の久坂玄随や楠本イネも学んでいます。
「鳩居堂」は千鳥が淵の「千鳥が淵戦没者墓苑」に西側の地にあったそうです。
写真は、戦没者墓苑の入口からその西側を撮ったものです。
「鳩居堂」があったと思われる付近を撮ってみました。
「鳩居堂」を開いた直後、宇和島藩士の身分のまま、同時に幕府の蕃書調所教授方手伝(助教授)となりました。これは箕作阮甫(みのつくりげんぽ)などの推薦によるものだそうです。
さらに、安政4年(1857年)、幕府の講武所教授となり、西洋兵書の翻訳にあたりました。
このように幕府と宇和島藩で活躍する大村益次郎を出身地の長州藩が見逃しませんでした。
明日は、長州藩に戻り活躍する大村について書いていきます。

