今日は、長州藩に出仕した大村の活躍について書いていきます。
【桂の要請により長州藩に出仕】
万延元年(1860)に、大村は、長州藩の要請により江戸在住のまま長州藩士となります。
これには、桂小五郎(のちの木戸孝允)の働きかけが大きかったようです。召抱えられる前に、大村は安政6年(1859)に長州に帰国しており、この時、桂小五郎とじっくり話をして、意気投合したようです。
その後、鬱陵島の開拓案の意見書を共同で作って幕府に提出するなどして親密さをましていきました。
そうした中で、桂は、大村を高く評価し、大村を長州に呼び戻すために、長州藩邸で行われている蘭学研究会に大村を呼んだり、宇和島藩との交渉を行うなどして、長州への招聘を実現しました。
一方、大村は、文久2年(1862)、幕府から委託されて教えていたアメリカ人宣教師ヘボンのもとで英語、数学を学んでいます。
この時期に、英語に目をつけている大村の先見性に驚かされます。
【博習堂で兵学を講義】
文久元年(1861)、萩へ帰国し、藩の洋式兵学校である「博習堂」で西洋兵学の講義を行いました。
いままでは、原書での講義が主流でしたが、翻訳書による講義を導入して、短期間で学習できるようにしました。
これは、当時としては画期的なことでした。
また、「博習堂」の規則を定めて、授業内容を、兵学、航海、砲術に分けて、さらに細かい科目も定めました。
ここで学んだ藩士は、後の下関戦争や長州征伐の時に大いに活躍しました。
【伊藤・井上の海外留学を助ける】
長州藩では、攘夷実行のためには、相手を知らないといけないと、藩士の海外派遣を密かに計画しました。選ばれたのは伊藤博文や井上聞多(後に馨)等5人です。
しかし、渡航費一人当たり1000両かかるため、それが工面できず、困っている時に、大村が資金調達の手助けをしました。藩の御用商人大黒屋から5000両の資金を調達したのでした。
これにより、5人は無事渡航できることになりました。
こうして、壌夷に沸き返っていた文久3年5月に5人が密かに外国船に乗り込んでイギリスに留学しました。
そして、留学した彼らは、すぐに攘夷の無謀なことを認識するのでした。
【福澤諭吉と喧嘩】
大村益次郎と福澤諭吉は、ともに適塾の塾頭をつとめた秀才です。
文久3年(1863)、緒方洪庵がなくなり、その通夜の席で、大村と福澤が会い、福澤が、長州藩の下関での外国船砲撃を批判したところ、大村は、すごい剣幕でまくしたてたそうです。
大村は、日頃攘夷を批判していましたが、福沢が長州を狂人扱いするのが許せなかったようです。
大村は福澤を嫌っていたようで、その後二人はついにめぐりあうことはなかったそうです。
桂小五郎 (木戸孝允)と伊藤博文の写真は、国立国会図書館蔵です。

