【不平士族に襲撃される】
長州藩で、抜群の軍政能力を発揮した大村益次郎は、新政府の軍務局に勤めます。
そして、新政府の強硬意見により、軍防事務局判事として江戸に下ります。
江戸では、西郷や海江田などの融和意見を抑え、彰義隊隊を討伐することとし、上野戦争で勝利を収めます。この経緯は、 「上野の攻防」 に書きましたので、そちらをご覧ください。
その後、越後や東北での戊辰戦争の指揮を江戸でとります。そして、函館戦争の勝利で戊辰戦争は終結します。
大村は、新政府では、国民皆兵制をめざします。
しかし、それは、士族の特権を奪うもので士族の反感を買います。そのため、大村の政策に反対する長州等の不平分子により、明治2年9月、京都で襲撃されます。
それが元で、襲撃されて約2ヵ月後の11月5日に大坂で死去します。
大村の最後の言葉は、楠本イネにオランダ語でいった「さようなら」だったそうです。
【靖国神社】
九段の靖国神社には、大村益次郎の銅像があります。この銅像は、大村が彰義隊を討伐するときの姿をモデルにしているそうで、陣羽織を着て左手に双眼鏡を持って東北の方向を見ています。
靖国神社は明治2年(1869)に、国内外での戦争などで戦没した軍人などを祀るための神社として創建されました。初めは東京招魂社と呼ばれました。
この東京招魂社の建設にも、大村益次郎が関わっていて、九段の場所を提案したのが、大村益次郎だそうです。ちなみに、社地は旧幕府歩兵屯所跡です。
東京招魂社は、明治12年(1879)に靖国神社と改称されました。
「靖国」という社号は、明治天皇の命名によるもので、「祖国を平安にする」「平和な国家を建設する」という願いが込められています。
大村の銅像は、明治26年(1893)、日本最初の西洋式銅像として建てられました。
製作者は大熊氏廣です。
【彰義隊士の墓】
一方、賊軍とされた彰義隊の戦死者の墓は、上野公園の西郷隆盛銅像の後ろにあります。
彰義隊士の遺体は、戦争直後は、上野山内に放置されていました。そこで、三ノ輪円通寺の住職仏磨らによって、上野で茶毘に付されました。その荼毘をした場所に建てられているのが、彰義隊の墓です。
彰義隊は明治政府にとって賊軍であるため、政府府をはばかって彰義隊の文字はありませんが、旧幕臣山岡鉄舟の筆になる「戦死之墓」と刻まれています。
正面の小墓石は、明治2年(1869)寛永寺子院の寒松院と護国院の住職が密かに付近の地中に埋納したものですが、後に堀り出され、現在の場所に設置されました。
大きな墓石は、明治14年(1881)に元彰義隊士小川興郷らによって建立されました。
【不平士族の暴発を予測】
最後に、大熊益次郎は、不平士族の反乱は、西国で起きると予言していたという話があります。
新政府に対する反対は、戊辰戦争の終結で、一応収まりました。しかし、新政府の首脳は不穏は動きを怖れていました。それに対して、大村は、「東北は、あと10年や20年は立ち直れないだろう。何かあるとすれば、それは西の方である」と言ったといいます。
「このことは、子爵曽我裕準の自叙伝に書かれている」と中公新書絲屋寿雄著「大村益次郎」に書かれています。また、「 一説によると、大村は、薩摩と西郷の動きを注視していた」とも書かれています。
大村は、大坂と熊本に鎮台を置き、大坂に造兵廠、宇治に火薬製造所を設置しました。
これらは、西国の不平士族の暴発に備えたものだそうです。
明治の不平士族の反乱はすべて西国で起きています。その最大のものが、西南戦争です。
西郷軍の東上を防いだのは、熊本鎮台の頑張りと言われていますが、これを見ると、大村の予言は的中していたと言えると思います。
写真は、熊本鎮台が置かれた熊本城です。

