大河ドラマをにぎわしている坂本龍馬、武市半平太、桂小五郎は剣豪でもあります。
そこで、今日からは、幕末の剣豪について、書いていきます。
幕末には、江戸三大道場といわれた「玄武館の千葉周作」、「練兵館の斎藤弥九郎」・「士学館の桃井春蔵」が最も有名ですので、これら三大道場から書いていきます。
まず、「千葉周作」です。
【浅利又七郎のもとで修行】
千葉周作は、出生地は岩手県陸前高田市と言われています。
また、宮城県栗原市花山とも言われています。
神田の玄武館道場跡にある碑では、栗原市としています。
写真は剣豪・千葉周作の才能を見いだしたと言われる佐藤重太郎の邸宅です。
宮城県栗原市花山にあり、孤雲屋敷と呼ばれています。
千葉氏は上総の名族千葉常胤の子孫と言われています。周作の父は幸右衛門と言い、祖父は、吉之丞といい北辰夢想流を始めたと言われています。
父幸右衛門は、文化6年(1809)周作が16歳の時、江戸に近い松戸に移り、医者を開業しました。
この頃、千葉周作は、中西派一刀流の浅利又七郎義信に入門しました。
浅利は松戸出身で、小野派一刀流の中西道場に学び、突きの名手といわれました。
後に、山岡鉄舟も弟子入りして指導も受けています。
浅利の元で腕を磨いた周作をさらに上達させるため、浅利は、師匠の中西子正(つぐまさ)について学ばせました。
【音無しの構え】
中西道場には、「中西道場の三羽烏」と呼ばれた寺田宗有、高柳又四郎、白井亨など錚錚(そうそう)たる人がいました。
その中の一人、高柳又四郎は、「音無しの構え」で有名でした。
中里介山の「大菩薩峠」に出てくる机竜之介のいわゆる「音無しの構え」は、この高柳又七郎の「音無しの構え」からヒントを得たといわれています。
高柳又七郎は、どんな人と試合をしても、音をたてたことなかったと言います。
二三寸剣先をはなしておき、相手が踏み込んできた時に、こちらから、一気に踏み込んで、一度も相手に竹刀に触れさせないのです。「後の先をとる」と言われるそうです。
そこから「音なしの構え」と呼ばれていました。
周作は、その高柳又七郎と試合をし、竹刀の音をたてさせたということで有名になりました。
こういう強豪ぞろいの中で、周作は、腕を磨き、一時は浅利義信の婿となって後を継ぐことを期待されました。
しかし、後に組太刀の改変について浅利義信と意見が対立したため、浅利の養女であった妻を連れて独立しました。
そして祖父の起こした「北辰夢想流」と「中西派一刀流」を発展させて、新たに「北辰一刀流」を創始したのです。
明日は、千葉周作のその後について書きます。