【兜割りの妙技】
榊原鍵吉は、明治20年11月11日に伏見宮邸で行われた明治天皇の行幸のもとの剣技披露の席にて、兜割りを行ったことで知られています。時に57歳でした。
兜割りに挑戦したのは3人でした。
一人は、鏡心明智流桃井春蔵門下の名人であり、警視庁の撃剣師範を務めていた逸見(へんみ)宗助でした。失敗でした。
もう一人は、逸見と同じ桃井道場門下であり、その兄弟子にあたる上田馬之助でした。
彼は桃井道場随一の俊才として名高く、竹刀の突きで道場の四分板を破ったという逸話の持ち主でした。
しかし、やはり兜は割れませんでした。
そして、最後に榊原鍵吉が挑戦しました。鍵吉は同田貫で見事に三寸五分切り込みました。
これをご覧になった明治天皇は、大変賞賛したそうです。
【男谷精一郎に薫陶を受ける】
榊原鍵吉は、文政13年(1830)、御家人榊原益太郎友直の長男として生まれました。
そして、13歳の時、麻布狸穴(まみあな)にあった男谷精一郎信友の門下となりました。
剣聖と呼ばれた男谷精一郎は、鍵吉に対してもやさしい人でした。
鍵吉の父が転居し、道場に通うのに不便になっても、鍵吉は男谷の道場に通いつづけました。
それを見かねて、精一郎は、通うのに便利な近い道場に変わってもよいと言いました。それでも、鍵吉は精一郎の道場に通いつづけました。
鍵吉は、進歩がめざましく非常に上達しましたが、貧しい彼は、免許状の申請をしませんでした。
当時は、免許皆伝のお礼として、師匠にお礼を贈り、さらに披露の宴を開いて師匠や先輩をもてなすのが、慣習でした。健吉はその費用が工面できないので固辞していたのです。
それを見かねた精一郎は、自ら費用その他の面倒を一切みて、固辞する鍵吉に対して、鍵吉の免許皆伝を許したのでした。
鍵吉が、安政3年(1857)27歳の時に講武所教授方に就任しました。これも、精一郎の推薦があったからです。
【高橋泥舟を破る】
徳川家茂が第14代将軍となると、鍵吉は講武所の教授方から師範役に昇格し、将軍に近侍するようになりました。
そして、安政7年(1860)、鍵吉は家茂の御前試合で高橋泥舟と試合をし、泥舟を破っています。
高橋泥舟は、勝海舟、山岡鉄舟とならんで幕末三舟の一人で、日本第一の槍の名人といわれました。
高橋泥舟は、山岡鉄舟の義理の兄でもあります。
ところが、家茂は慶応2年に、第二次長州征伐の途中、大阪城内で病死してしまい、鍵吉は官職を辞しました。 鍵吉は、家茂の後を継いで将軍となった徳川慶喜には仕える気が起きなかったのだそうです。。
上野戦争では、彰義隊から再三入隊の誘いがありましたが参加しませんでした。
しかし、この戦いの中で輪王寺宮公現法親王を、戦火の中から救い出しました。
【維新後の榊原】
維新後は、徳川家達に従って駿府に赴きました。
しかし、廃藩置県により、駿府七十万石の存続も危なくなると、迷惑をかけぬよう、早々に辞職しました。
明治5年に、廃刀令が出ると、剣の代わりに杖を腰に差し、明治6年には、窮乏する道場の資金稼ぎとして、撃剣興行を始め、維新後衰退した剣術の再興と普及に取り組みました。
これは大変好評で、これを真似る見世物が氾濫しましたが、剣術を見世物にすることに耐えられなかった鍵吉は興行は止めてしまいます。
このように剣術で生きていくのが難しくなる時代に、明治20年に明治天皇行幸の席で、鍵吉の晴れ姿を見せることができたのでした。
榊原鍵吉は、明治27年9月11日に亡くなりました。65歳でした。
鍵吉は死ぬまで髷を解かなかったそうです。
鍵吉の墓は、四谷西応寺にあります。
明治になって、坂本龍馬暗殺の犯人であると証言した今井信郎( のぶお)は榊原鍵吉の弟子です。