戒行寺には「鬼平」で有名な「長谷川平蔵供養碑」がありますので、当然長谷川平蔵について説明しました。
その準備のため、 長谷川平蔵宣以(のぶため) について、事前に調べました。
その中では、瀧川政次郎氏著の 「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 が大変参考になりました。
そこで、 「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」 に書かれていたことで気がついたことをいくつか書いてみます。
【長谷川氏の系譜】
長谷川平蔵宣以は、は、延享2年(1745)400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれる。長谷川氏の発祥地は奈良の長谷川とされ、藤原秀郷系とされているようです。
しかし、確かに分かる長谷川氏の先祖は、長谷川正長とされています。
長谷川正長は今川義元に仕える徳一色城(のちの田中城)の城主でしたが、義元が桶狭間で死に、義元の子の氏真も武田信玄に対抗できなくなってきたため、今川氏についていることをやめ、徳川家康に仕えました。
家康に仕えた長谷川正長は三方ヶ原で武田軍に突入し討ち死にしました。
正長の長男正成は、秀忠に仕え、秀忠の三女勝姫が松平忠直に輿入れする際、付け人となっています。
その後、この正成の家系が長谷川氏の本家となります。
正長の次男は、宣次といい将軍家康に近侍します。これ以後、この家系は、宣の字を通り名として継承していきます。
この8代目が宣以で、池波正太郎が描く鬼平のモデルの長谷川平蔵ということになります。
従って、長谷川平蔵は、長谷川家の分家の出身ということになります。
【父 長谷川宣雄】
平蔵の父の宣雄も火付盗賊改役を拝命していて、有能な火付盗賊改役であったようです。
明和9年(1771)に起こった目黒行人坂の火事は、死者一万人と言われ目黒行人坂の大円寺から出火し浅草や千住辺りまで焼く大火事でした。そのため、江戸三大大火の一つとされた大火事でした。ちなみ江戸三代大火とは「明暦の大火」「目黒行人坂の大火」「芝車町の大火」を言います。
この目黒行人坂の大火の放火犯を捕らえたのが、長谷川平蔵の父の宣雄でした。
犯人は、熊谷無宿の真秀という坊主でした。
この取調べの調書も残されているようです。
その功績から父宣雄は、安永元年(1772)10月に京都西町奉行に昇進し、平蔵も妻子と共に京都に赴きました。
上の写真は、現在の大円寺です。JR目黒駅から歩いて5分ほどのところにあります。

