長谷川平蔵宣以(のぶため)は、延享2年(1745)に生まれています。実母は、寛政重修諸家譜によると、「母は某氏」となっています。諸家譜中の某氏とは農民・町人の娘をさすそうです。
そのため、瀧川先生は、平蔵の母親は長谷川家の領地であった現在の千葉県山武郡から長谷川家に奉公にあがった女性ではないかと推測しています。
右の写真は、戒行寺の写真です。
正面が本堂、参堂右手に「長谷川平蔵供養之碑」があります。
【『本所の鐵』は事実らしい】
平蔵は、父の京都西町奉行就任により、一旦京都へ行きますが、父は8ヶ月あまりで急死したため、江戸に戻ってきます。
そして、安永2年(1773)に30歳で家督を継ぎますが、小普請組にとどまります。
この時期に、平蔵宣以は、深川で放蕩無頼の遊びをしたようです。
これは、京都の岡藤利忠という浪人が文政年間に書いた「京兆府尹記事」という本に書かれています。
「遊里へ通ひ、あまつさえ悪友と席を同うして、不相応のことなど致し、・・・本所の鐵と仇名せられ・・・」と書かれているそうです。
従って、「鬼平犯科帳」でよく「本所の鐵」と言われたという場面がでてきますが、これは事実であったようです。
【田沼的性格があだ!】
その後、安永3年(1774)の西の丸御書院番組入り後、順調に出世していきます。
天明6年(1786)に、御先手組弓頭に任ぜられました。
そして、天明7年(1787)火付盗賊改に任ぜられたのは42歳の時です。さらに、寛政の改革では、石川島人足寄場の設立を建議し、その実現や経営などで功績を挙げました。
しかし、老中松平定信との関係はうまくはなかったようです。
松平定信は自伝「宇下人言]の中で、長谷川平蔵の名前を明記せず「長谷川某(なにがし)」とだけ書いて、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べています。
平蔵は、田沼時代には、西の丸御書院番組の番士を振り出しに順調な昇進を続けましたが、定信の時代になると、彼の昇進はなくなりました。
このように、松平定信が、長谷川平蔵を嫌ったのは、平蔵宣以は闊達な江戸っ子肌の豪傑で小事に拘泥しないことなどの田沼的性格が嫌だったのではないかと、瀧川政次郎先生は書いています。

