【平蔵、火付盗賊改任期中に死亡】
長谷川平蔵は、天明7年(1787)火付盗賊改に任ぜられました。
その後、石川島人足寄場の設立に尽力しましたが、その経営が軌道にのると、人足寄場取り扱いを免ぜられ、また火付盗賊改に戻ります。この間、的を得た裁判を行いました。そのため、平蔵を評して今大岡という記事が「江戸懐古録」に書かれているそうです。「わすれ残り」という随筆には、「人々今の大岡殿と称して、本所の平蔵様とて世にかくれなし」と書かれています。
平蔵は、寛政7年(1795)、に火付盗賊改の任期中に病に倒れます。
死の直前、11代将軍家斉から、「瓊玉膏」(けいぎょくこう)という高貴な薬を下賜されています。
その4日後の5月10日に平蔵はなくなりました。しかし、長谷川家では、その喪を秘し、5月14日に御役御免を願いでて、16日に御役御免が許されました。
【なぜ、平蔵の墓がないか】
そして、四谷の戒行寺に葬られました。
四谷の戒行寺は、長谷川家の菩提寺ですので、歴代の長谷川平蔵が眠っていました。
しかし、現在は、長谷川平蔵宣以をはじめ、長谷川家のお墓はありません。これは、不思議なことなのですが、瀧川政次郎氏はその事情を「長谷川平蔵 その生涯と人足寄場」に次のように書いています。
「平蔵の子孫も、子宣義・孫宣茂の時代までは栄えたらしいが、その曾孫の時代に至って戊辰の変に遭遇し、すっかり没落してしまったようである。・・・(曾孫)の鐵五郎はその半生が旗本であったので、辛うじて戒名に院号がつけられているが、それ以後の長谷川氏の戒名には院号が除かれている。その子孫が落魄したことが察せられる。(中略) 明治41年、戒行寺内にあった墓は、日蓮宗寺院共同墓地に改葬移転せられた。 この時に、長谷川の遺族は立会わなかったので、墓は無縁のものとして処分されてしまったという」
【栗本鋤雲は平蔵の親戚】なお、最後に、幕末に幕府の外国奉行などを歴任しフランス通として知られていた栗本鋤雲(くりもと じょうん)は、長谷川平蔵と親戚関係のようです。
栗本鋤雲の書いた「匏庵(ほうあん)遺稿」の中に、「予が母方大伯父は長谷川平蔵」と書いてあるそうです。
これによれば、栗本鋤雲の母方のお祖父さんの兄が長谷川平蔵ということになりますが、瀧川政次郎氏は、詳細は調査はしていないと書いています。
なお、栗本鋤雲は、破天荒な経歴をもっていますので、また別の機会に書いてみたいと思います。

