ここは、幕末の京都守護職を務めた松平容保が生まれた場所でした。
松平容保は、美濃高須藩主義建(よしたつ)の六男として天保6年(1835)に、四谷にあった高須藩上屋敷で生まれたのです。
そこで、今日からしばらく松平容保(かたもり)について書いていきます。
【高須藩】
津の守弁財天は、四谷三丁目駅4番出口から5分のところにあります。ここに江戸時代、美濃高須藩松平家の上屋敷がありました。
高須藩は、尾張藩第2代藩主・徳川光友の次男松平義行が起こした藩です。
高須藩は、宗家に嗣子が絶えたときこれを相続し、尾張藩を輔弼する役割を果たす支藩として機能しました。
尾張藩7代藩主宗春は、享保の改革に対抗して奢侈な政策を実施したため、8代将軍吉宗により隠居謹慎させられます。
その後の尾張藩の8代藩主徳川宗勝は、高須藩第3代藩主松平義淳が宗家を継いで尾張藩主となったものです。
【高須四兄弟】
松平 容保(かたもり)は、美濃国高須藩主・松平義建(よしたつ)の六男でした。
義建(よしたつ)は子沢山で8人の男子がいました。そのうち6人が成人しそれぞれ藩主となっています。長男は夭逝し、次男の慶勝は尾張藩主、三男の武成は石見浜田藩主、五男茂徳(もちなが)は慶勝が安政の大獄で隠居謹慎を受けた後の尾張藩主となり、さらにその後一橋家を継いで茂栄(もとはる)を名乗ります。 四男が夭逝し、六男が容保です。七男定敬は桑名藩主、八男の義勇(しげたけ)が高須藩を継ぎます。
このように兄弟が徳川家の親藩や家門の藩主となっていますが、特に、慶勝、茂徳(もちなが)、容保、定敬は、高須四兄弟と呼ばれています。
右写真は、4人がそろった写真です。右側たっているのが慶勝、前列右側で座っているのが茂徳(もちなが)、後列で立っているのが容保、左側で座っているのが定敬です。
【高須藩は水戸系】
容保の祖父になる9代藩主松平義和(よしなり)は、水戸藩主徳川治保の次男ですので、幕末には、尾張藩や高須藩は水戸系の子孫でした。
松平容保は、公か3年(1846)に、11歳で、会津8代藩主・容敬(かたたか)の養子となり、嘉永5年(1852)に会津藩を継ぎました。 養父となった容敬高須松平家出身で実の叔父(義和の四男)に当たります。
明日は、容保が継いだ会津藩の藩祖・保科正之について書きます。
ところで、津の守弁財天の「津の守」は「摂津守」を略した名称なので、「つのもり」でなく「つのかみ」と読みます。
代々、摂津守を名乗った高須藩の上屋敷にあったため、「津の守弁財天」の名前がついています。近くにある「津之守坂」という地名も高須藩の摂津守に由来するものです。

