「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」 は、名君と言われた保科正之が、自分の子孫や家老たちに戒めとして定めたものです。
正之が推敲に推敲を重ね、さらに山崎闇斎にも意見を聞いて定めたと言われています。
その各条文は最下段に書きましたので後でお読みください。
【徳川家への忠義が最も大切】
その中で、特に目をひくものが第一条です。第一条は次のように書かれています。
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
意味は、次のようなものです。
「徳川将軍家については、一心に忠義に励むべきで、他の諸藩と同じ程度の忠義で満足していてはならない。もし徳川将軍家に対して逆意を抱くような会津藩主があらわれたならば、そんな者は我が子孫ではないから、家臣は決して従ってはならない」
まさに、徳川将軍家に対する忠義一途の思いです。
【会津藩の規範】
この家訓が会津藩の藩是として、江戸時代を通じて、会津藩と会津藩士の行動を決める重要な規範となりました。
会津藩では、家老に登用されたものは、その末尾に記名血判したという説もあります。
そればかりでなく、年頭には、家訓が奉読され、藩主も家来ともども平伏して拝聴するということが行われていたそうです。
家訓は、会津藩にとって大変重要なもので、「その文僅々15条と雖も我藩の憲法にして磐石よりも重かりしなり」(会津藩教育考)というものでした。
【容保も徹底的に教え込まれる】
弘化3年(1846)に会津藩主松平容敬(かたたか)の養子となった松平容保は、この家訓を養父容敬から徹底的に教え込まれました。
この家訓が、幕末に容保が何回も固辞し京都守護職を最終的には受諾する大きな要因となりました。
その話は明日します。
それでは、最後に、「会津藩家訓(かきん)15ヶ条」全文を書きます。
本来は、漢文だそうですが、書き下し文で書きます。
一、大君の儀、一心大切に忠勤に励み、他国の例をもって自ら処るべからず。
若し二心を懐かば、すなわち、我が子孫にあらず 面々決して従うべからず。
一、武備はおこたるべからず。士を選ぶを本とすべし 上下の分を乱るべからず
一、兄をうやまい、弟を愛すべし
一、婦人女子の言 一切聞くべからず
一、主をおもんじ、法を畏るべし
一、家中は風儀をはげむべし
一、賄(まかない)をおこない 媚(こび)を もとむべからず
一、面々 依怙贔屓(えこひいいき)すべからず
一、士をえらぶには便辟便侫(こびへつらって人の機嫌をとるもの
口先がうまくて誠意がない)の者をとるべからず
一、賞罰は 家老のほか これに参加すべからず
もし位を出ずる者あらば これを厳格にすべし。
一、近侍の もの をして 人の善悪を 告げしむ べからず。
一、政事は利害を持って道理をまぐるべからず。
評議は私意をはさみ人言を拒ぐべらず。
思うところを蔵せずもってこれを争うそうべし
はなはだ相争うといえども我意を介すべからず
一、法を犯すものは ゆるす べからず
一、社倉は民のためにこれをおく永利のためのものなり
歳餓えればすなわち発出してこれを救うべしこれを他用すべからず
一、若しその志をうしない
遊楽をこのみ 馳奢をいたし 土民をしてその所を失わしめば
すなわち何の面目あって封印を戴き土地を領せんや必ず上表蟄居すべし
右15件の旨 堅くこれを相守り以往もって同職の者に申し伝うべきものなり
寛文8年戊申4月11日
25年1月24日に「会津藩家訓」の第4条について補足説明しました。
こちらご覧ください。 ⇒ 「媛姫(はるひめ)毒殺事件(「八重の桜」余談)」