容保は、大変苦悩したうえで、京都守護職に就任しています。そのことについて書いていきます。
【京都守護職は新設ポスト】
まず、京都守護職ですが、文久2年の幕政改革の一環として設置された新設のポストです。
当時、京都は、尊攘派の活動が活発であり、テロも頻繁に起きました。
しかし、京都所司代や町奉行所ではこれを押さえきれず、幕府の威厳は失墜していました。
そこで、京都市中の治安維持及び御所・二条城の警護などを担う役割として設置したものです。
【容保、就任を断る】
当初は、越前藩主松平春嶽も有力候補でしたが、春嶽が政治総裁職についたため、 会津藩の松平容保に白羽の矢があたりました。家門であり、門閥に不足はなく、兵力も十分に保持していたためです。
そのため、松平春嶽(右写真は、「国立国会図書館蔵」)は、松平容保を推薦し説得しました。
要請があったとき、再三、容保は固辞しています。そして重臣も断ることに賛成でした。
それは、容保自身が、健康でなかったことや藩の財政が厳しかったことがあります。
容保は浅才であり大任を果たす自身がないということや万一、失策のあった場合には、徳川宗家に累が及ぶのと同じだとも言って断っています。
【説得の切り札は会津藩家訓】
しかし、松平春嶽はあきらめません。 書を出したり、重臣を呼んだりして説得を続けます。
そして最後のとどめが「会津藩家訓」でした。
次の手紙は、保科正之が定めた「会津藩家訓」を十分踏まえた説得の言葉です。
「台徳院(2代将軍秀忠のこと)の御血脈の公方様、土津様(保科正之のこと)御末裔の貴兄に候えば、御情において御同然と存じ奉り候。
徳川氏の信不信の相立ち、公武御合体の有無は貴兄の断、不断にあり。
小生泣いて申し上げ候も、方今台徳院様、土津公あらせられ候わば、必ず御受け相成り申すべくと存じ奉り候。」
【家臣ともども悲壮な覚悟で受諾】
会津藩藩祖や家訓まで持ち出され、こうまで言われて、容保は観念しました。
就任の方向との知らせを聞いた国家老の西郷頼母(たのも)、田中土佐は、駕籠を飛ばして江戸に駆けつけました。 西郷と田中は、色をなして諌めました。
「いまこの至難の任にあたるのは、まるで薪を背負って火を救わんとするもので、労多くして、その功は少ない」
しかし、容保は「私が固辞していることを一身の安全を図っているという人がいるそうだが、会津藩には藩祖の家訓がある。いやしく安きむさぼるといわれては決心する他はない」といいました。
重臣たちもこの容保の決意にうたれ、「総力を挙げて大任にあたり、君臣もろともに京師の地を死場所としよう」と、悲壮な覚悟を固めたといいいます。
【容保父子の歌】
この時の容保の心境をよく表したのが、実父義建に贈った次の歌です。
行くも憂し 止まるもつらし 如何にせん 君と父と 思うこころ
これに対して、実父の義建は、次の歌を返しました。
父の名は よし立てずとも 君がため 勲(いさを)あらわせ 九重のうち
容保は、ついに 京都守護職を受諾しました。
そして、容保は会津藩兵を連れて、京都に向かったのでした。

