今日も松平容保について書いていきます。今日は 「八・一八の政変」 を中心に書いていきます。
【守護職屋敷】
松平容保は、文久2年(1862)12月24日、京都守護職として入洛したが、屋敷は急ごしらえもできず、金戒光明寺を本陣と定めて、京都市中取締りの指揮を執りました。その後、文久3年末に、京都守護職の役宅は,釜座通りの東西1町、南北2町にわたり、約68,000坪の広大な面積を誇り、建物は7,000坪の大きな屋敷が新築されました。
隣には京都所司代千本屋敷が在り、東には御所があると言う正しく京都守護の要衝でした。
守護職屋敷は現在の京都府庁周辺にあたり、京都府庁には「京都守護職屋敷跡の碑」が建っています。
【八・一八の政変】
文久3年(1863)8月18日、京都で俗に「八・一八の政変」と呼ばれるクーデターが起こりました。
当時朝廷は三条実美らの攘夷急進派が主導権を握っていました。これに対して、公武合体派が巻き返しをおこない、尊王攘夷派を京都から一掃し、政局の主導権を奪取したのです。
孝明天皇は、過激な攘夷主義者でしたが、倒幕などはまったく考えておらず、朝廷と幕府が協調して攘夷は あくまでも幕府が中心となって実施していこうという公武合体派でした。
8月13日、突然薩摩藩の高崎佐太郎が会津藩士の秋月悌次郎を訪ねてきました。
そして、宮中から尊王攘夷派の公家を排除することをもちかけました。
容保は公武合体派の中川宮や近衛忠熈父子、二条斉敬なりゆき)の協力を取り付けるとともに、ちょうど交替時期で京都を離れていた会津藩兵1000名を呼び戻して準備しました。8月18日深夜1時に中川宮は急遽参内し、次いで近衛忠熈父子、二条斉敬(、京都守護職松平容保、京都所司代稲葉正邦らが密かに参内しました。
ただちに、御所の門は全て固く閉じられて会津藩・薩摩藩らの兵によって厳重に警護されました。そして召命のないものはたとえ関白でも入門させないとの厳命がくだりました。
そして、その中、御前会議が開かれ、攘夷親征のための行幸延期、尊皇攘夷急進派の公家の参内停止と謹慎、長州藩の堺町門警衛解任などが議決されました。
異変に気づいた三条実美らが駆けつけますが中に入ることはできず、長州兵もいそぎ堺町門へ行きますが会津藩・薩摩藩の兵と対峙したままで、入門することはできませんでした。
その長州藩に対して、対峙の場から退去すべきとの勅命が下りました。
攘夷急進派はやむを得ずいったん東山の大仏妙法院へ退去して軍行いました。その結果いったん長州へ退いて再起を期すことにします。
そして19日、三条実美、三条西季知、沢宣嘉、東久世通禧(みちとみ)、壬生基修(もとなが)、四条隆詞(たかうた)、錦小路頼徳(よりのり)七人の公家が長州へと下っていきました。これが名高い七卿都落ちです。
【御宸翰と御製】
孝明天皇は、容保の主導により、8月18日の政変(クーデター)が成功し尊王攘夷派が退けられたことに大変満足でした。
そこで、クーデターの中心となった容保に対して、10月9日、孝明天皇より御宸翰(非公式の手紙)と御製(天皇が作った歌)を賜わりました。これは「8月18日の政変(クーデター)」が成功したことを喜んだ孝明天皇が、その働きをたたえて下した褒状です。
【御宸翰】
堂上以下、暴論を疎ね、不正の処置増長につき、痛心に耐え難く、内命を下せしところ、すみやかに領掌し憂患掃攘、朕の存念貫徹の段、まったくその方の忠誠にて、深く感悦のあまり、右一箱これを遣わすもの也。
文久三年十月九日
【御製】
たやすからざる世に、武士(もののふ)の忠誠のこころをよろこびてよめる
和(やわ)らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄え舞
武士とこころあはしていはほをも つらぬきてまし世々の思ひて
孝明天皇の容保への信任は非常に高かったのです。そして、容保は、上の国立国会図書館蔵の写真のように美男子であり、彼が参内すると宮中の女官たちはそわそわするほど、宮中で人気がたかったそうです。
御宸翰と御製を賜った容保は感激し生涯忠誠を尽くすことを決意したそうです。
そして、これらを写真の左下の錦の筒に納めて、終生、この御宸翰と御製を肌身離さず持っていたそうです。

