【和田倉門の由来】
慶長12年ごろの図に、この門内に和田倉と称する蔵が2棟あったため和田倉門と呼ばれたそうです。和田倉の名前は、「わた」から出たと言われています。「わた」とは海のことで、「わたつみ」「わたの原」という言葉になっています。
「わたつみ」とは海神のことで、太平洋戦争で戦没した学徒兵の遺書を集めた「きけ わだつみのこえ」が有名です。
日比谷の入り江がここまで入り込んでいて、その入り江に倉が並んでいたので、「わたくら → 和田倉」と呼ばれるようになったのだろうと言われています。
この蔵は、後に厩と馬預役宅となりました。
【門は大震災まで残る】
和田倉門は元和6年の改築で東北の諸大名により枡形が構築されました。
渡櫓門、高麗門は大正12年の関東大震災まで残されていましたが、渡櫓は関東大震災で大破したので、大正13年に破却されました。高麗門も解体され保存されていましたが、戦後半蔵門に移築されました。
木橋は戦後復元されたもので、現在の江戸城の木橋は、平河門と和田倉門の二つだけです。
この橋の擬宝珠(ぎぼし)は元の橋のものを使用しているそうです。
明治天皇が、初めて江戸城に入城する際には、呉服橋を通った後、和田倉門を通ったそうです。
【会津藩上屋敷】
現在の和田倉橋を渡っていくと、昭和36年天皇陛下(当時皇太子殿下明仁親王)のご成婚を記念して造られ和田倉噴水公園があります。
訪れた日は、たまたま噴水がとまっていました。
このあたりに、江戸時代は会津藩松平家の上屋敷がありました。9150坪と伝えられる大きな敷地に上屋敷が置かれていました。
藩祖保科正之の頃には桜田門内に藩邸があったそうですが、宝永6年3代藩主正容の代にこの和田倉門内に屋敷を賜りました。
周辺の屋敷は老中や若年寄の役宅でしたので、主人が頻繁に変わりましたが、会津藩は、戊辰戦争までここに上屋敷がありました。
松平容保や藩の重職が、京都守護職の就任という苦渋の選択をしたのも、この上屋敷でした。
松平容保の悲壮な決意での受諾の経緯については「京都守護職(松平容保)」をお読みください。

