【今の正式名称は「正門石橋」】
「西の丸大手門」は、西の丸の正門でいわゆる二重橋と呼ばれている二つの橋の手前の橋を言います。
この橋は、現在は正式には「正門石橋」といいます。
江戸時代は、西の丸大手門を渡った先の枡形は、高麗門と櫓門が同一方向に並んだ形になっていました。従って、高麗門をくぐるとその正面に櫓門が見えたことになります。右の写真は長崎大学付属図書館蔵の二重橋の写真ですが、写真左端に枡形が写っていて、橋を渡った先に高麗門があり、その直ぐ後ろに櫓門があるのがわかるだろうと思います。
その枡形の先には的場曲輪があり、右折して再び櫓門をくぐりさらに右折して(つまりUターンする形になります)、二重橋と通称されている「西の丸下城門(げじょうもん)」を渡り、書院門をくぐって西の丸にはいるようになっていました。
現在も、正月・天皇誕生日の一般参賀客はこのルートで西の丸にある宮殿に向かうようです。
この辺の縄張りは西の丸に対する防御として2代将軍秀忠が自らおこなったといわれます。
【正面は櫓門】 江戸時代に橋の正面にあった高麗門と櫓門のうち、高麗門は明治21年に皇居を新築する際に撤去され、後方にあった櫓門が前に移動されて残されました。
従って、現在の橋の正面にみえるのは、昔の櫓門です。
【西の丸の役割】
西の丸は主に将軍職を譲った大御所の住居や将軍世嗣の住居として使われました。
大御所として、西の丸に居住した将軍は、2代将軍秀忠、8代将軍吉宗、11代将軍家斉の3人でした。
9代将軍家重も大御所となりましたが、家重は二の丸に居住して西の丸には居住しませんでした。
しかし、西の丸に大御所が居住した年数は3代合わせても15年程度にすぎず、西の丸の性格は将軍世嗣の住居としての性格の方が強いといえます。
4代将軍家綱以降の将軍世嗣のほとんどが西の丸に住んでおり、世嗣として西の丸に居住したことのない将軍は、8代将軍吉宗と15代将軍慶喜のみです。

