松平春嶽(慶永)は、文政11(1828) 御三卿田安家に生まれました。
春嶽は号で、慶永(よしなが)が本名です。他に礫川、鴎渚などの号を用いたそうですが、生涯通して春嶽の号を最も愛用しました。
【春嶽は田安家出身】

田安家は、8代将軍吉宗の次男宗武が起こした家です。
初代が宗武で、2代治察が病弱で早世しました。このとき、治察の弟定信は既に白河藩の久松松平家への養子行きが決められており、3代目を相続することが認められなかったため、田安家は、しばらく当主がいませんでした。
そこで、天明7年(1787)に、一橋家から一橋徳川家2代当主徳川治済の五男の徳川斉匡が入り3代当主となりました。徳川斉匡は11代将軍家斉の弟になります。
右写真は国立国会図書館蔵です。
【将軍家慶は従兄弟】
この斉匡が春嶽の父です。従って、春嶽からみて11代将軍家斉は叔父になり、12代将軍家慶は従兄弟になります。
春嶽の男の兄弟は10人いましたが、主な兄弟としては、一橋徳川家の5代当主となった四男の斉位(なりくら)、一橋徳川家の7代当主となった五男慶壽(よしひさ)、田安徳川家の第5代当主である慶頼(よしより)は9男、尾張藩第13代藩主となった慶臧(よしつぐ)が十男でした。
松平春嶽は10歳の天保9年(1838)に越前藩15代藩主松平斉喜(なりさわ)の養嗣子となります。そして翌年11歳の時に、斉喜の死去によって16代藩主に就任しました。
【中根雪江が補佐役】
そして、当時、大名は17歳まで帰国を許されない決まりでしたが、春嶽は16歳で帰国し、藩政の改革に取り組みました。
春嶽の補佐には有名な中根雪江(せっこう)がつきました。
中根家は代々700石を知行する上級藩士の家です。中根雪江は通称は靱負(ゆきえ)と言います。靱負を雪江とも書き、さらに「せっこう」と音読みしました。
雪江は平田篤胤から国学を学んでいました。天保9年(1838年)に春嶽が藩主に就任すると側用人見習いとなり、春嶽に近侍しました。
【名君との交わり】
春嶽が人間形成の上で大きな影響を受けたのが、徳川斉昭、阿部正弘、島津斉彬です。
また、大変親しい友人に山内容堂がいます。
徳川斉昭には、福井入国する前に、小石川藩邸を訪れて、初対面の挨拶したのち、藩主としての心得9か条の質問書を出して教えを請うています。
28歳年長のため、初めは師父として教えをこい、その後は同士として藩政改革と海防に協力しました。
阿部正弘は春嶽より9歳年長で、正室も越前家出身であり親戚関係にありました。
春嶽が攘夷不可能を知り積極開国論に転向したのは阿部正弘の影響によるものです。
島津斉彬との交流は、斉彬37歳、春嶽18歳の時に始まります。春嶽は斉彬を師父と仰ぎ、もっとも懇意であったと書いています。また、斉彬も、久光への遺言として、諸侯中穏健誠実の第一の人物は春嶽であるから国事周旋にはその協力を仰ぐよう言い残しています。
山内容堂は盟友ともいうべき関係です。春嶽は容堂を常に熟友といっていました。容堂は春嶽より一歳年下で肝胆相照らし切磋琢磨する仲で、幕府崩壊まで公武合体の主流としてともに活動しました。