橋本左内について調べていて、西郷隆盛が大変尊敬していたということが書かれていましたので、今日はそのことを紹介します。
【西郷隆盛が尊敬した橋本左内】】
明治10年9月24日、西郷隆盛は郷里鹿児島の城山で、その一生を終わりました。
その直後、官軍が捜索すると西郷がいつも携帯していた軍用鞄の中に、一通の手紙が入っていました。それは、左内と西郷が「将軍継嗣問題」に奔走していた時期の安政4年12月14日付に左内から西郷に宛てられたものでした。
☆吉川弘文館「西郷隆盛」によると文書は「一橋公行状記」とのこと (22.8.18追記)
西郷は、20年前の左内の手紙を亡くなるその瞬間まで肌身離さず持っていたのです。
西郷にとって橋本左内という人物は、一生忘れることの出来ない同志であり、永遠の友人でもあったのです。
また、西郷は、奄美大島に島流しになっている時に、大久保利通が諸藩で信頼できる人物を問い合わせた返事として安政6年正月2日付けの手紙の中で、水戸の武田耕雲斎・安島帯刀、越前の橋本左内・中根雪江、長州の益田右衛門介、肥後の長岡監物などをあげているそうです。
ほとんどが家老級の人物です。その中の一人として橋本左内をあげているのです。
そして、諸藩はそれぞれ勝手に行動せず、お互いに必ず十分打ち合わせて動くことが大事であり、事前に越前に連絡をとりその指図を受けるのが重要だとも書いているそうです。
この越前とは橋本左内を指しているとのことです。
これらの話は、講談社学術文庫「啓発録」に載っている金沢工業大学平泉洸教授の講演によるものです。
【「景岳橋本君碑」に見る左内の偉大さ】
小塚原の回向院の橋本左内の墓の前に「景岳橋本君碑」があります。
「景岳」とは、橋本左内の号です。
碑は非常に大きなもので、石が割れているのか金属で補強されています。
碑文は非常に長文ですし一部が欠けたりしています。そこで、中公文庫「啓発録」の金沢工業大学平泉洸教授の講演の中で要約されていますので、それに基づいて書いてみます。
それによると、当時の偉人傑物が左内を高く評価していることがわかります。
①西郷隆盛は、「若い頃江戸で四方の賢人豪傑と交わったが、常に曰く、吾れ先輩においては藤田東湖に服し、同輩においては橋本景岳を推す。この両人は、我輩がまねようとしても、まねられるものではない。」と言って感嘆していた。
②川路聖謨は、「昨夜橋本に初めてあったが、その議論は実に深刻切実であって、自分は半身は斬りとられたような感じがした。一生の間、多くの人にあったが、これほど卓越した人物は未だ見たことがない」と舌を巻いて語った。
③武田耕雲斎は、「一見して百年の知己にあったように喜び、東湖は死んでしまったが、第二の東湖が生きていた」と言った。
以上の撰文は重野安繹博士が書いています。
重野安繹は西郷隆盛と同じ時期に奄美大島で島流しになっています。そうしたことから左内の話を西郷から直接聞いたことがあります。ですから重野博士の撰文は西郷から直接聞いたことを元に出来たものであると今泉洸教授は語っています。
なお、藤田東湖に、春嶽の側近の鈴木主税(側向頭取)が「福井には人物がいなにので困ります」と言ったところ、東湖は「何をおっしゃる橋本左内がいるではありませんか」と言われ、驚いた鈴木主税が中根雪江と相談して左内を御書院番に推挙したそうです。
藤田東湖からも、そして西郷隆盛からも若くして「人物」と認められて橋本左内は相当の人物だったのだろうと思います。

