というより、文久の改革とは春嶽と慶喜の行った政治だということを今回知りました。
今日は、その「文久の改革」について書いていきます。
政治総裁職となった春嶽を中心として幕府改革の政策が実行されていきます。
春嶽と慶喜の連立政権は、譜代大名出身の幕閣の成しえない空前の改革を次々に断行しました。
1、参勤交代の緩和 それまで隔年交代制であった大名の参勤交代を三年に一度に改め、江戸在留期間も100日としました。
また人質として江戸に置かれていた大名の妻子についても帰国を許可することとなりました。
これは、幕府にとって、重要な大名統制策を変えることになり、大きな政策変更でした。
☆この緩和策は第一次長州征伐後の慶応元年(1865)正月に元に戻されました。
2、京都守護職の設置
文久2年閏8月に京都守護職の制度が設けられ、会津藩の松平容保が任命されました。
京都守護職は、京都所司代の上に位置し、無法地帯となっている京都の治安と警備を強化するためです。
春嶽は松平容保を適任者として、再三の要請により就任を決意させたのです。
要請を受けた松平容保が何回も固辞した後悲壮な決意をもって就任したことはすでに書いていますので、こちらの「京都守護職」をご覧ください。
3、軍制の改革
陸軍については、軍制改革を行い、歩兵、騎兵、砲兵の三兵を置くことにしました。
陸軍の役職も整えられ、歩兵・砲兵・騎兵の三兵の奉行がおかれ、それを統括する役職として陸軍奉行が設置されました。
されにその上位に陸軍総裁が設置され、阿波藩主の蜂須賀斉裕(はちすかなりひろ)が任命されました。
陸軍奉行は下野黒羽藩大関増裕が任命され、歩兵奉行は小栗忠順が初代奉行となりました。
4、朝廷政策の変更
その他、朝廷に関することでは、関白・大臣などの任命前に幕府の同意を求めることをやめました。さらに武家伝奏を任用する際に、誓詞を幕府に提出するのもやめました。
このような改革を行った松平春嶽政権について「従来松平春嶽・一橋慶喜を中心とする新政権について、朝廷や薩摩藩によって成立を強要されたもので、幕府内の隠然たる反発が強くさしたる成果もあげられなかったとされてきた。しかし、幕政を転換させるうえでこの政権が果たした役割を過小評価することはできない」と大妻女子短期大学の高木不二教授は「横井小楠と松平春嶽」のなかで書いています。
文久の改革を主導していた春嶽は、文久3年(1863)2月には、将軍上洛に先立ち京都に入り公武合体運動を推進しました。
しかし朝廷からは攘夷期日の決定を迫られるなどして、三月9日に総裁職の辞表を提出し、無断で帰国しました。
その後、3月25日になって政治総裁職を罷免され、逼塞に処せられました。

