【ハリス記念碑】
善福寺の境内には、ハリス記念碑が建てられています。これは昭和11年に三井物産社長の益田孝が発起人となって建立したものです。
ハリスは、安政3年(1856)8月、下田総領事として日本に着任し、通商条約の調印交渉を行い、安政5年(1858)に日米修交通商条約を締結しました。
そして、翌年正月に初代公使に任命され、6月より善福寺を公使館として利用しました。
その後、善福寺は明治8年まで公使館として利用されました。
【ハリスは元々は経済人】
ハリスは、1804年にニューヨーク州に生まれました。
成人し1846年にはニューヨーク市の教育局長となり、1847年に学費無料の高等教育機関「フリーアカデミー」(ニューヨーク市立大学の前身)を創設し貧困家庭の子女の教育向上に尽くしました。
しかし、陶磁器業の経営が悪化したため、ハリスは1849年にはサンフランシスコで貿易業を開始し、アジアで商売をしていました。
1853年のペリーの日本再渡航の際には、上海にいたハリスはペリーに対して日本への渡航を望みましたが、許可されませんでした。
その後、ハリスは政府に運動し、1854年4月には中国の寧波の領事に任命されました。
さらに、ハリスは、日本領事への就任を望み、ピアース大統領に運動して、1855年に初代駐日総領事に任命され、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられました。
【修交通商条約締結に努力】
ハリスは通訳兼書記としてオランダ人のヘンリー・ヒュースケンを雇い、1856年(安政3年)に出発。ヨーロッパからインドを経由し、さらに香港経由で安政3年8月に日本へ到着し、伊豆の下田へ入港しました。
日本では最初下田上陸を拒否されたものの交渉の結果下田の玉泉寺に領事館を構えました。
ハリスは度々江戸出府を要請し続けていましたが、幕府は引き伸ばしていました。しかし、同年7月にアメリカの砲艦ポーツマスが下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、将軍との謁見を許可します。
ハリス、ヒュースケンらの一行は安政4年(1857年)10月に下田を出発し、江戸に入りました。
江戸では蕃書調所に滞在した後、12月に江戸城に登城し、13代将軍徳川家定に謁見しました。
安政5年(1858)にアメリカの汽船ミシシィピ号からアロー号事件の情報を聞いたハリスが早期締結を強く交渉したため、大老井伊直弼が朝廷の勅許無しで通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結されました。
右写真は『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』
【ハリスは日本人びいき】
ハリスは、翌年そのまま初代駐日公使となり、下田の領事館を閉鎖して江戸の麻布善福寺に公使館を置きました。
その後も日本に留まり、文久2年(1862)には病気を理由に辞任しました。
ハリスは、修交通商条約締結時に厳しく交渉したというイメージが強いのですが、彼の日記には、日本人について「喜望峰以東の最も優れた民族」と書かれているそうで、日本には好意的であったようです。
また、ヒュースケンが殺害された際、イギリス・フランス・オランダ・プロシアの公使・領事や代表は横浜に退去してしまいましたが、ハリスだけは幕府への信頼をくずさず善福寺にとどまっていました。
こうしたことから、ハリスが公使辞任を申し出た時に、幕府はハリスの留任を嘆願する文書をアメリカ側に送ったそうです。
しかし、ハリスは文久2年(1862)4月に5年9か月の滞在を終えて帰国しました。
帰国後は特に公職には就かず、1876年には保養地のフロリダ州に移住し、74歳で死去しました。ハリスは生涯独身でした。

