幕末の公使館の7回目で、今日は、イギリスの公使館となった 「高輪接遇所」を案内します。
高輪接遇所は、泉岳寺の門前にありました。現在は、泉岳寺前児童遊園となっています。
有名な泉岳寺は多くの人が御存知だと思いますが、その門前に幕末から明治にかけてイギリス公使館があったと知っている人はほとんどいないのではないのでしょうか。
【英国公使館は東禅寺・御殿山と襲撃が続く】
イギリスの最初の公使館は、以前書いたように東禅寺でした。しかし、東禅寺は、第一次東禅寺事件、第二次東禅寺事件と連続して、攘夷派に襲撃されました。そこで、イギリス公使館は危険をさけるため一旦横浜に退去します。
さらに、御殿山に建設中であった公使館も文久2年(1863)12月12日に、高杉晋作、久坂玄随、伊藤博文、井上聞多などにより襲撃され炎上してしまいます。
右上の写真が、高輪接遇所のあった現在の「泉岳寺前児童遊園」です。
【泉岳寺を希望】
そこで、慶応元年(1865)2月イギリスの代理公使ウィンチェスターは高輪泉岳寺を公使館とするよう幕府に要求しました。
そして、慶応元年(1865)閏5月に着任した公使パークスは、泉岳寺中門前の敷地に公使館を建設するよう要求しました。この要求に応じて幕府は泉岳寺門前に高輪接遇所を建設し、イギリス大使館としました。
攘夷派の襲撃をさけるために、イギリス公使館とよばず「高輪接遇所」と呼んだようです。
敷地は2659坪で、ここに平屋建て2棟の公使館が建築され、1棟がパークス用、もう1棟が公使館員用にあてられました。
また、泉岳寺には外国人を警護する別手組の屯所が設けられました。.
【パークスは江戸城無血開城の裏の立役者】
パークスは、オールコックの後を受けて、慶応元年(1865)に駐日公使となりました。
幕末から明治にかけて、幕府や明治新政府に大きな影響をあたえました。特筆されることは、江戸城総攻撃の際、東征軍の東海道鎮撫総督参謀木梨精一郎を通じて西郷隆盛に圧力をかけ、江戸城無血開城の道を開いたことです。
なお、イギリスは横浜にも慶応3年(1867)に公使館を建設しており、江戸と横浜の両方に公使館がありました。 パークスと木梨精一郎との会談は慶応4年3月13日に横浜で行われています。
パークスは、明治16年まで日本に駐在しました。
【江戸の名所となる】
泉岳寺は赤穂義士の墓がある寺として、江戸時代から名所となっていましたが、明治以後は門前のイギリス公使館も新たな名所となり、錦絵にも描かれています。イギリス公使館としての役割を終えた後は、新政府の外国人接遇所として外国使節との交渉などに使用されました。
【岡本綺堂にも関係あり】
岡本綺堂といえば「半七捕物帳」で有名ですが、この岡本綺堂の父親岡本敬之助は明治2年から高輪のイギリス公使館に雇われました。
そして綺堂は、明治5年に泉岳寺近くの高輪北町で生まれました。
右写真は泉岳寺にある大石内蔵助の銅像です。高輪接遇所の目の前ですので撮ってきました。

