今日からは大手門から江戸城に入って、天守台まで紹介していきたいと思います。
まず今日は 「大手門」 です。
大手門は、大手町交差点から土橋をわたったところにあります。
JR東京駅の丸の内北口から歩いて10分です。
【大手門は江戸城正門】
大手門は江戸城の正門になります。大名や旗本が本丸に登城する際には、主に大手門と内桜田門から登城しました。
かつて門前には大手門橋がかけられていましたが、大正年間に埋め立てられて、現在は土橋となっています。
「慶長図」という慶長年間の古地図には大橋と書かれていて、また「寛永図」には元大橋口とあるそうで当初から正門だったと思われます。
大手門は慶長年間に藤堂高虎が縄張りし、その後元和年間に築いたのは伊達政宗で延べ42万3千人余の人力と大判2千600枚あまりの黄金を費やして築いたといわれています。
この伊達政宗が築いた大手門は明暦3年(1657)の明暦の大火で焼失したので、万治2年(1659)に再建されました。
【大手門は外桝形門】
第一の門は高麗門です。これを入ると、四角に囲われた桝形と呼ばれる広場があり、右奥に重厚な渡櫓門がある右折枡形門です。
桝形とは、広場が正方形で枡の形をしているからそう呼ばれると言います。
また、城から討って出る軍勢の数をこの広場を利用して、枡でもの計るように計算することができるので桝形と呼ばれるようになったという説もあります。
桝形には、城の内側に構えた内桝形と外側に構えた外桝形があり、大手門は外枡形です。
右の写真は大手門をパレスホテル方向から撮ったものですが、大手門の部分が出張っている形になっています。
【鯱は明暦3年の作】
枡形の中には、鯱が置いてあります。
この鯱は、渡櫓門の屋根に飾られていたもので、「明暦三丁酉」と刻まれていますので、明暦3年(16577)に起きた明暦の大火の後に渡櫓門が再建された時に製作されたものと推定されています。
渡櫓門は、関東大震災で倒壊し、戦災で焼失しましたが、昭和43年に再建されました。