今日はその「下馬」についてのお話です。
【大手門は大下馬と呼ばれた】
大名や旗本が江戸城へ登城する時には、本丸に登城する場合には大手門、内桜田門、西の丸に登城するには西の丸大手門を利用しました。
これらの門前は「下馬」と呼ばれ、特に大手門前は「大下馬」と呼ばれました。右の写真は現在の大手門交差点すなわち「大下馬」の様子です。遠くに大手門が見えます。
大手門の前の橋の外側に「下馬」と書かれた立て札が立てられていました。
これは文字通り、ここで馬を下りることを意味していました。ここから先は、大名や役高500石以上の役人・高家・交代寄合など「乗輿(じょうよ)以上」の格をもつ者以外は、馬や駕籠から降りなければなりませんでした。
下馬から先に連れていける共連れの人数は、三家や四品・10万石以上の大名や国持大名の嫡子は13人、1万石から10万石の大名は10人~11人に制限されました。
「下馬」という文字は足利将軍以来の伝統筆法で記されたもので、はじめは曾我尚佑が任じられました。そして、これの伝法には時の将軍の認可が必要だったそうです。
【下馬評の由来】
通常の時は大手門、内桜田門、西の丸大手門が下馬でしたが、登城人数が多くなる式日には、大手門より外側の鍛冶橋、呉服橋、常磐橋が下馬となります。
(なお、和田倉門、馬場先門、外桜田門が人数が多い日は下馬となると書いてある本〔田村栄太郎著「江戸城」など〕もあります。)
多くの大名は、下馬までは多数の家臣と共に登城しますが、家臣の多くは下馬先で待たざるをえませんでした。
ここで、家臣たちは、大名が下乗してくるまでの時間を幕府内での出世話や人の評判・噂話をしてつぶすことが多くなりました。このことから「第三者が興味本位にする噂や評判」を意味する『下馬評』という言葉が生まれました。
大手門前には、大名が下城するのを待つ人や大名の登城風景の見物客が大勢集まっているので、自然と彼らを相手にした商売が行われたとも言います。いなり寿司やそばや甘酒などの飲食物をうる屋台が多く出たという話もあります。
【大手門の警備は最高に厳重】
大手門の警固は、十万石以上の譜代大名が受け持ち、江戸城にある城門のうちで最高位にありました。
『徳川盛世録巻之二』によると、鉄砲30丁、弓10張、持弓2組、持筒2丁、長柄槍20筋が常備されていました。そして大手門は将軍の出入りする門でしたので次のように警備方法も厳重でした。
「御規式御成ノ節ハ其番所の詰番大名衣服 熨斗目半袴着、通御ノ節不残人払当主面番所中程土間へ、盛砂致シ左ノ場所ヘ平伏、枡形ニ家老壱人、御門扉際ニ留守居役壱人蹲踞罷有候事」
大手門の開閉時間は、享保6年(1721)の定めによると「卯の刻(午前6時ころ)から酉の刻(午後6時ころ)まで」と決められていました。

