今日は、この「大手三の門」のご案内です。
大手三の門は三の丸から二の丸に入る正門で、寛永6年に酒井忠世など8名の大名により築かれました。
【ここで下乗したので別名下乗門】
大手三の門も枡形門で、門前は、江戸時代には、二の丸と三の丸を別ける濠がありました。
その濠が大正8年に埋め立てられたため、現在は濠も橋もなくなっています。
江戸時代には、その濠に架かった橋の外側には「下乗」と書かれた札がありました。ここで、大手門の「下馬」でも駕籠を降りる必要のなかった「乗輿」以上の格の大名・旗本も、御三家と日光門主など以外は、全員、駕籠をおりなければなりませんでした。
このため、大手三の門は、別名下乗門とも呼ばれます。
また、大名とともに城内に入れる供連れの人数もさらに減らされました。
御三家は10人、四品・10万石以上の大名や国持大名の嫡子で5人、1万石から10万石の大名は4人になってしまいました。
【三の門の由来(私見)】
なぜ三の門と呼ばれるのか明確に書かれたものがありません。
あえて推測で言えば、本丸御殿の前の「中雀門」が一の門、次の「中の門」が二の門、そして、その次にあるので、三の門と呼ばれたのではないかということも考えられます。
【同心蕃所】
枡形の中には同心番所があります。これは元々は門外の濠の外にあったようです。
説明板には
「番所は、警備の詰所のこと 百人番所、大番所、同心番所の3つが残っている。同心番所には同心が詰め、おもに登城する大名の供の監視に当たっていた。」
と書かれています。
三の門の警護は、鉄砲組が担当していましたので、この同心番所の同心が監視していたのは、大名や旗本が登城した後に残されたお供の人たちのようです。
【供はどこで待っていたのか】
ところで、下乗門で入場を制限された供連れはお殿様が下城してくるまでどこで待っていたのでしょうか。
最後の殿さまと呼ばれた浅野長勲の話では、「供の者は登城している間、下乗門の外で待っているので、随分難儀なものです」と言っているので、下乗門の外で待っていたようです。
一方、小川恭一氏の「江戸城のトイレ、将軍のおまる」によると「残された従者は大手橋前の広場で乗物とともに待ちます」と書かれています。これによると供も駕籠も大手門外で待っていたことになります。

