「中の門」は、本丸への正門になります。別名「二の門」とも呼ばれました。
【巨石を積み上げた最大級の石垣】
「中の 門」の両側の石垣は巨石をそろえたもので威圧感があります。白い花崗岩は瀬戸内海産の石であり、黒い石は東伊豆産の安山岩だそうです。
平成17年から20年に行われた石垣の修復の際に、「宝永元年甲申四月 因幡伯耆両国主 松平右衛門督吉明築之」と刻まれた石が見つかったことから、宝永元年に因州鳥取藩3代藩主池田吉明(のち吉泰)が築造したものと考えられています。
【御三家もここで駕籠から降りた】
この写真は「中の門」の内側から東側を撮ったものです。正面に見えるのが百人蕃所です。
「大手三の門」を駕籠に乗って通ることのできた御三家も、「中の門」の外で駕籠を降りなければなりませんでした。ここからは、すべての大名・旗本が徒歩で本丸に登城しました。
登城する際に連れていく供侍も、御三家を含めた四品・10万石以上の大名と国持大名の嫡子は4人、1万石から10万石の大名は3人になりました。
ここで減らされた供は、百人番所の西側に隣接していた「供侍」という長屋で本丸から下城してくる大名・旗本を待ちました。
【門柱の穴が残る】
「中の門」は、枡形ではなく、渡櫓門があるのみでした。石垣と石垣の間には、江戸時代のままの石畳である「磚(せん)」が敷かれており、両脇には4つの門柱の穴が開いています。
左の写真では、奥が石垣で、手前の少し黒い四角い石が敷かれている部分が石畳になります。
両方の境目に丸い穴があるのがわかりますか? 丸い穴が門柱の穴です。
【門の警備は持組が担当】
「中の門」の警護は、持弓組と持筒組の与力・同心が担当し、鉄砲25丁、弓25張が常備されていました。
持弓組と持筒組は、将軍の弓や鉄砲を管理し持参する部隊で、持筒組と持弓組を総称して持組と呼ばれました。元和9年(11623)に設置され、寛永9年(1632)には持筒組4組、持弓組3組となりました。
持組1組には与力10騎、同心50人が属していました。
「中の門」の内側には大番所があり、説明板には、「他の番所より高い位の与力・同心によって警護されていました」と書かれていますがよく意味がわかりません。
「徳川幕府辞典」によれば、持組の与力は現米80石高で百人組も全く同じ、持組の同心は30俵3人扶持で百人組は30俵2人扶持でほぼ同じです。
持組の与力・同心のほうが位が高いようには思えませんが、別の事情があるのでしょうか?

