シーボルト自身は築地に住んだことはありません。しかし、娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建てた(説明板の解説から)そうです。
あかつき公園は、東京メトロ日比谷線「築地」駅4蕃出口より徒歩6分です。
【シーボルトはドイツの名門出身】
シーボルトは、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトといい、1796年、 南ドイツのバイエルン州の名門医者の子として生まれました。
成長した彼はオランダ領東インド陸軍の外科少佐に任命され、さらには、日本の長崎出島にあるオランダ商館の医師に任命されました。シーボルトは、文政6年7月6日(1823年8月11日)、長崎に着きました。
その後、シーボルトは、出島の外で活動することを長崎奉行所から許され、文政7年(1824年)、長崎郊外の鳴滝にあった民家を手に入れ、シーボルトは、日本の調査・研究を進めるとともに、日本人に医学の講義を行ないました。これが有名な鳴滝塾です。
やがて、日本人女性の滝と結ばれ、文政10年(1827年)には娘いねが生まれました。
【シーボルト事件で追放】
シーボルトは、5年の任期を終えて文政11年(1828年)に帰国することとなりました。
同年8月彼が乗船することになっていた船が、長崎を襲った暴風雨により、長崎港内の稲佐の海岸に乗り上げてしまいました。
そして、その積荷の中から、日本地図など禁制の物が見つかり、シーボルトは、文政12年9月(1829年10月)、国外追放を申し渡された。
また、日本地図を送った高橋景保は処罰を受けました。これがいわゆる「シーボルト事件」です。
オランダに帰り着いたシーボルトは、日本から持ち帰った数多くの資料を整理して、日本に関する論文をつぎつぎに発表しました。
また、博物館を開設して集めた資料を公開しました。
【幕末に再来日】
時が30年程たち、シーボルトは、オランダ商館長ドンケル・クルチウスの願い出により国外追放を解かれました。
シーボルトは、安政6年(1859年)、オランダの貿易会社の顧問の肩書きで、長男アレクサンダーを連れて、来日しました。このとき、シーボルトは63歳でした。
長崎に着いたシーボルトは、滝やいね、そしてかつての門弟たちと再会を果たしました。
そして、シーボルトは、文久元年(1861年)、幕府に呼ばれて江戸へ行き幕府の顧問となりました。
この時滞在したのが、以前幕末の公使館シリーズで紹介した 「赤羽接遇所」 です。
江戸では、自然科学の講義をしたり、幕府に外交上の進言をしたりしましたが、4ヵ月で職を解かれ、シーボルトは、在日イギリス公使館の通訳となった長男を残し、文久2年(1862年)に日本を離れました。
わずか2年7ヵ月ほどの日本滞在でした。
シーボルトは、ドイツに帰り、帰国の4年後、明治維新直前の慶応2年(1866)にミュンヘンで亡くなりました。 69歳でした。

