江戸文化歴史検定は、タイトルの中に、「文化」が入っています。しかも「歴史」の前に「文化」があります。
ということは、「文化」面も無視するわけにはいかないと思います。
今年のお題は「幕末」です。「幕末」といえば、圧倒的に政治史の世界です。
ですので、受験される皆さんは「政治史」を中心に勉強されていると思います。
しかし、「文化」の面もある程度押さえておいたほうがよいと思います。
そこで、今日は、「幕末」でも、文化面といえるかどうかわかりませんが、政治史を離れて、「安政の大地震」について書いてみます。
【荒川河口を震源とする直下型地震】
安政の大地震は、安政2年(1855)10月2日の夜10時頃、関東地方南部で発生したM6.9の直下型の大地震です。
震源は東京湾北部・荒川河口付近だと考えられています。
被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域でしたが、江戸の被害は大きく、江戸での死者約7000人、重傷者約2000人、倒壊家屋約1万4000戸にも及んだと言われています。
特に被害の大きかったのは、本所、深川、浅草、築地などの下町地区でした。
新吉原では、廓がほとんど焼失し、客と遊女が1560人も焼死したそうです。
【水戸の両田(藤田・戸田)が死亡】 また、日比谷から西の丸下、大手町といった谷を埋め立てた地域でも被害が大きく、小石川の水戸藩上屋敷が倒壊して、藩主徳川斉昭を支え、「水戸の両田」と言われた戸田忠太夫と藤田東湖が同時に死亡してしまいました。
藤田東湖は大地震の際、一度は屋敷の外に逃れましたが、火を心配した母親が再び屋内に戻ると東湖も後を追い、落下してきた梁から母親を守るために自らの肩で受け止め、何とか母親を脱出させることができましたが、自分は下敷きとなって圧死しました。
今、小石川後楽園の東北の一番奥に「藤田東湖先生護母致命之處」と刻まれた石碑があります。
(右の写真が石碑です。)
東湖が圧死した場所は元々は白山通りで、そこに記念碑があったそうですが、白山通り拡幅工事のため、小石川後楽園の現在地に移されたといいます。
また、薩摩の芝の上屋敷も大きな被害を受け、当時、上屋敷に居住していた天璋院 篤姫は、以後、渋谷藩邸に移りました。
【鯰絵が流行】
この安政の大地震の直後に、鯰絵」と呼ばれる風刺画が大量に出回りました。その数300とも400とも言われています。
鯰絵は、鹿島明神が要石(かなめいし)で地底に潜む大鯰を押さえ、地震が起きるのを防ぐという俗信にもとづいています。鯰絵は、①地震の恐怖や不安を描いたもの、②神や庶民による鯰退治、③地震で儲けた職人が鯰をあがめているもの、④新しい時代の到来を告げる世直し鯰の4パターンがあるそうです。
このような鯰絵が、短期間に流行したのは、飢餓や疫病、異国船の到来、大地震などの天災や事件が打ち続いて、不安定な社会情勢になっていた時期に、庶民が鰻絵で不安を和らげていたと考えられています。

