北海道大学名誉教授の鈴木章さんと米パデュー大学特別教授の根岸英一さんです。
2008年の下村 脩さんに続いて、化学賞受賞は2年ぶり、日本人受賞者は18人うち化学賞は7人になりました。
大変うれしい話でした。
ところで、ノーベル化学賞が「江戸」となぜ関係するのかと疑問に思った方もいるかもしれません。
この「化学」という言葉を作り出した人は、幕末の蘭学者 「川本 幸民(かわもと こうみん)」 というひとです。
江戸文化歴史検定にでるかどうかわかりませんが、時々科学者が出題されるので、今日は 「川本幸民」 のお話です。
【化学の祖 幸民は摂津三田出身】
川本幸民は、「化学」という言葉を作り、マッチやビールを試作し、写真も研究したため、「日本の化学の祖」と呼ばれています。
川本幸民は、摂津三田藩九鬼家の藩医川本周安の3男として生まれました。9歳で藩校「造士館」に入学し、卒業後は医者を志し遊学を許され、、藩主九鬼隆国の江戸参勤に同行します。
当時最高の蘭学者坪井信道の塾「安懐堂(あんかいどう)」に入門しました。
緒方洪庵も坪井信道で学んでいたので洪庵と同門ということになります。
24歳で三田藩医となり、天保6年(1835)7月に江戸の芝露月町で医者を開きました。
同年末には江戸屈指の蘭学者青地林宗(あおち・りんそう)の3女秀子と結婚します。
林宗の長女粂は坪井信道に嫁いでいるため、2人は義兄弟ということになります。
結婚後まもなく、幸民は酒に酔って同僚を刀で切りつけてしまいました。
藩主九鬼隆国の寵愛をねたまれたのが理由とされますが、これにより、5年間の謹慎を強いられ、天保12年(1841)にようやく謹慎が解かれます。
この後、薩摩(さつま)藩主島津斉彬の知遇を得て、ついには安政4年(1857)には薩摩藩士となっています。
また、この間、安政3年(1856)幕府の蕃書調所教授手伝となり、3年後に教授となります。
【化学という言葉を使用】
文久元年(1861)に幸民は、ドイツ人が書いた「化学の学校」のオランダ語版を翻訳した「化学新書」を出版しました。この本の中ではじめて「化学」という言葉が使われました。
当時はオランダ語から引用した「舎密(せいみ)」が一般的でしたが、 幸民が、中国の書物に「化学」の単語を発見し、その後は化学という言葉が定着しました。
【マッチ、ビールを試作】
幸民は、化学書の翻訳に取り組むとともに、日本初のマッチや電信機、銀板・湿板写真などの製作 を行います。こうしたことから、「日本の化学の祖」と言われます。
嘉永元年に、ある商人が西洋のマッチを手に入れ、皆の前で自慢し、同じものを作れたら50両を与えるといいました。 そこで幸民は発奮して日夜研究を重ね、ついに黄燐マッチの試作に成功し、50両を手に入れたそうです。嘉永4年には写真術を試み、銀板光画(写真)に成功、これはカメラ・銀板(フィルム)・現像液・定着液にあたるものもすべて手作りでした。
なお幸民は嘉永6年(1853)ビールを醸造をしていますが、これは、日本で初のビール醸造を行ったことになります。このことから、幸民はビールの始祖とも呼ばれています。
幸民が醸造したビールの再現を、キリンビールが行っています。
出来上がったビールは、香り高くフルーティーな味わいだったそうです。
参考:キリンビールホームページの中の 「初めてビールを醸造した日本人 川本幸民」に、幸民が試醸したビール再現について詳しく書かれています。

