13代将軍家慶の世子家祥(後の家定)は病弱であったため、将軍継嗣問題は、早い段階から話題になっていました。
【家慶も継嗣として期待(?)】
当の家慶も、家祥について懸念していたようで、慶喜が一橋家に入ってからは、毎年少なくとも1回は一橋邸を訪ね、鹿狩りなどにも同伴して出かけました。
嘉永5年(1852)には、「鶴の羽合わせ」に同伴するつもりであったが、阿部正弘から時期尚早といわれ見合わせたといいます。
その家慶が、嘉永6年(1853年)、黒船来航の混乱の最中、継嗣についての意思を明確に表示しないまま病死したため、第13代将軍家定の継嗣問題が浮上します。
慶喜を推すのは、実父の斉昭や阿部正弘、越前藩主松平春嶽、薩摩藩主島津斉彬などです。
一方、紀州藩主徳川慶福を推すのは彦根藩主井伊直弼や家定の生母の本寿院を初めとする大奥の南紀派でした。
井伊直弼が安政5年(1858年)に大老となると、一橋派は勢いを失い、将軍継嗣は徳川慶福)と決しました。
【意地により極端な謹慎生活】
また、同じ時期、井伊直弼は勅許を得ずに日米修好通商条約を調印します。
慶喜は斉昭、福井藩主松平慶永らと共に登城し直弼を詰問しますが、翌年の安政6年(1859年)8月に隠居謹慎処分となりました。
この日は三卿の将軍面会日であり、斉昭や松平慶永と違って不時登城ではないので、当時から不当は処罰という説もあるほど、罪状は不明のままの処分でした。
このため、慶喜は、一橋邸で謹慎します。慶喜の謹慎中の生活は次のようなものでした。
慶喜の髪は長髪とするが、近臣はその必要がない。
将軍に対するご機嫌伺いは無用。 徳川宗家・一橋歴代の霊に対する参詣は無用。
普請は禁止。表門と裏門は締め切り、裏門の潜り戸をあけて目立たないように出入りする。
慶喜はこれらの処分に対して、自分には落ち度がないことから「血気盛りの意地」から、極端な謹慎生活を送ることで抵抗したのだと後になって言っています。
その後、しばらく謹慎する日々がつづきますが、桜田門外の変で大老井伊直弼がなくなったことを受け、万延元年(1860年)9月に謹慎を解除されます。
【将軍後見職となる】
文久2年(1862)6月、島津久光率いる薩摩藩兵に護衛されて勅使大原重徳が江戸に入り、徳川慶喜と松平春嶽の登用を強く迫った結果、 7月6日慶喜を将軍後見職、7月8日春嶽(左写真 「国立国会図書館蔵」)を政事総裁職に任命しました。
慶喜と春嶽は文久の改革と呼ばれる幕政改革を行ない、京都守護職の設置、参勤交代の緩和などを行ないました。
文久3年(1863年)12月、翌年2月に予定されている将軍家茂の上洛に先立って京都に上り、攘夷を迫る朝廷と厳しい交渉を行うことになります。