明日23日は、主に小学生を対象にした史跡ツァーが、地元で開催され、ガイドをします。
歴史の授業を受けたことのない低学年の子供もいるので、わかりやすい案内が必要だろうと苦心しています。
来週土曜日の10月30日は、千代田区観光協会主催の「江戸城ツァー」のガイドの予定です。
その翌日は、江戸検1級2期会の定例会で、「千住ツァー」が予定されています。
来週日曜日は、もう江戸文化歴史検定の試験日です。
受験される皆さんは、最後の追い込みにがんばっていると思います。
受験される皆さんがんばってください。 心から応援しています
今日は、大政奉還の経緯について書いていきます。
大政奉還の中心となったのは土佐藩の後藤象二郎で、そのアイデアを出したのは坂本龍馬です。
後藤象二郎は、慶応3年(1867年)坂本龍馬から大政奉還論を聞いて感銘を受けます。
さらに、慶応3年6月15日、長崎から京都に向かう途中に「夕顔丸」の船中で明らかにされた坂龍馬の「船中八策」にも影響され、在京土佐藩幹部に大政奉還論の採用を主張し同意を得ます。
【薩土盟約】
これを薩摩藩に打ち明け、薩摩藩の小松清廉・西郷隆盛・大久保利通も同意し、6月22日薩土盟約を締結しました。この席には、坂本龍馬、中岡慎太郎も同席していました。
これは慶喜に大政奉還を建白し、慶喜が拒否した場合には武力による圧迫で政変を起こすというものでした。
武力倒幕をめざす薩摩藩が、この内容に同意したのは、大政奉還に慶喜は応じず、慶喜が拒否すれば、武力倒幕の名目がたつという読みがありました。
後藤はすぐに帰国して山内容堂の同意を得ることができました。
しかし、土佐藩兵を引率して上洛することについては、山内容堂の反対により、それは実現しませんでした。
そのため、9月7日には薩土盟約は解消されました。
【大政奉還建白書提出】
そこで、土佐藩は単独で10月3日に大政奉還の建白書を山内豊範を通じ将軍慶喜に提出しました。
建白書の提出は幕府側からの要請もあったようです、9月20日に若年寄永井尚志から、後藤象二郎に対して提出の依頼があり、その後、10月2日に改めて永井から建白書提出について督促があったそうです。
【慶喜すばやく決断】
建白書の提出を受け、10月12日に慶喜は大政奉還の決断をし、すぐに老中などを二条城に招集し大政奉還する旨を伝えます。
翌10月13日、慶喜は二条城に在京諸藩の重臣を招集し、大政奉還について諮問します。
反対意見はなかったため、10月14日に「大政奉還上表」を朝廷に提出すると共に、上表の受理を強く求めました。摂政二条斉敬ら朝廷の上層部はこれを受け入れるつもりはありませんでしたが、薩摩藩の小松清廉、土佐の後藤象二郎らの強い働きかけにより、翌15日に慶喜を加えて朝議が開催された勅許が決定しました。
天皇が慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授け、大政奉還が成立しました。
これにより、討幕の名分がなくなりました。そのため、大政奉還を申し出たのと同じ日の10月14日に下ったという「討幕の密勅」が10月21日停止されることになりました。