幕末は、本丸御殿や二の丸御殿が短期間に続けて焼失するという事態が起きました。
そのため、天璋院、家茂、和宮の居住場所がめまぐるしく変わっています。
安政6年(1859)10月17日、本丸御殿が焼失しました。その時、天璋院は家茂、本寿院(ほんじゅいん 13代将軍家定の生母)とともに吹上御苑に移り、その後、西の丸に移りました。
本丸が竣工した万延元年(1860)11月9日に天璋院と家茂、本寿院は本丸に戻りました。
【天璋院、和宮下向しても、本丸に住む】
将軍家茂が正室として和宮を迎えることとなりました。
この準備のため、本寿院は文久元年(1861)9月25日、本丸から二の丸に移りました。しかし、天璋院は、本丸大奥の主の和宮が迎えるにあたっても、本丸に居残りました。
そのため、天璋院は新御殿に住み、和宮は「下の御鈴廊下」近くの部屋に住みました。
なお、有名な御鈴廊下は江戸城内に2つありました。そして上の御鈴廊下、下の御鈴廊下と呼ばれていました。
ところで、京都から下向してきた和宮は、輿で文久元年(1861)11月15日申刻(午後4時頃)清水邸に到着しました。
12月11日に和宮は糸毛車で、清水邸を出て、吹上上覧所、竹橋門、大手門を通り、本丸御殿の塀重門から 大広間車寄せに到着し大奥に入りました。
なお糸毛車は、和宮の行列に先だって解体して江戸に送られてまた組み立てられたものです。
【天璋院、二の丸に移る】
天璋院は本来御台所が住む御殿から動かないので、和宮が御殿にすめなかったため、京都の朝廷から幕府にクレームが来ました。
このためかどうかわかりませんが、天璋院は、文久3年(1863)8月に、二の丸に移りました。
しかし、この直後、文久3年11月15日、本丸御殿と二の丸御殿が焼失しました。
この時、天璋院は、吹上の滝見茶屋に避難しました。
【天璋院、清水邸に住む】
既に西の丸が6月に焼失しており、さらに本丸と二の丸が焼失したため、将軍・御台所の住む御殿がなくなりました。
そこで、家茂・和宮は清水邸に移り、同時に、天璋院と本寿院も清水邸に移りました。
しかし、清水邸には4人は住めないので、家茂と和宮はさらに田安邸に移ります。
この時、家茂の海路での再上洛が11月5日に布告されていましたが、本丸・二の丸の焼失によって延期され、家茂が江戸を出発したのは12月下旬でした。
その後、西の丸が先に造営されることになり、元治元年6月に竣工し7月1日に、家茂と和宮が田安邸から移りました。
家茂の再上洛は無事終わり、帰路も海路で元治元年5月20日に江戸に戻っていました。
【天璋院、二の丸に住む】
家茂と和宮が西の丸に移ってまもなくの元治元年(1864)7月に、天璋院のため二の丸を造営することを発表しました。
二の丸御殿が完成し、慶応元年(1865)4月29日、天璋院は正式に清水邸から二の丸に移りました。 折角再建された二の丸御殿も慶応3年(1867)12月23日に再び炎上します。天璋院は本寿院と実成院(じつじょういん 14代将軍家茂の生母)とともに、三の丸に避難し、吹上滝見茶屋に移り西の丸に入りました。
そして天璋院と和宮はまた一緒に暮らすことになりました。
【天璋院、一橋邸に住む】
江戸城明け渡し後は、慶応4年(1868)4月9日に和宮と実成院が清水邸に移りました。10日には天璋院と本寿院は一橋邸に移りました。
天璋院は当初和宮と同じ屋敷への立ち退きを希望していましたが、結果として希望どうりにはなりませんでした。
その後、天璋院は、千駄ヶ谷の徳川宗家の屋敷に移りました。

