今日は、龍馬暗殺についての岩倉具視、松平春嶽のコメントと天満屋事件について書いてみます。
【龍馬、霊山に埋葬される】
龍馬ら3人の葬儀は11月18日に行われたという記録があるそうですが、実際は17日の夜に行われたようです。
葬儀は近江屋で行われ、葬列には海援隊・陸援隊、土佐藩士、薩摩藩士らが参列し、霊山に埋葬されました。
【岩倉・春嶽のコメント】 龍馬が暗殺されるという報を聞いて、岩倉具視は、「臣(岩倉)も実に遺憾切歯之至リ、何卒真先ニ復讐致シ度キものニ候」と薩摩の大久保利通に書いているそうです。
また、松平春嶽(右写真、国立国会図書館蔵)は、国許の藩主茂昭に次のような手紙を書いています。
「昨15日夜、土藩才谷梅太郎(坂本龍馬の変名)他一人(中岡慎太郎)殺害されたり。殺人者分り居り候趣ながら藤次(福岡孝弟)も聞きもうさず候。段々藤次の咄承り候処、此度土藩尽力により芋藩(薩摩藩)の姦策已(すで)に破れたる形勢なり」
文面を読むと春嶽は龍馬暗殺は薩摩藩の仕業ではないかと考えているようです。
【天満屋事件】
龍馬と中岡を殺された海援隊と陸援隊の隊員は、暗殺者は「新撰組」であり、その黒幕は紀州藩の用人三浦休太郎だと考えます。
それは、いろは丸事件で、紀州藩は8万両もの賠償金を払うことになったため、その恨みを晴らすために龍馬を暗殺したと考えました。 そして12月7日夜、三浦休太郎が泊まっていた油小路花屋町下ルにある「天満屋」を襲撃します。
襲撃に参加したのは16名です。
正面組は陸奥陽之助ら7名、側面からは沢村惣之丞ら7名、裏口は3名として襲う計画でした。
陸奥陽之助は、後の外務大臣陸奥宗光です。(左写真、国立国会図書館蔵)
しかし、不穏な動きを察知していた紀州藩は、会津藩を通して新選組に三浦休太郎の警護を依頼していました。
そのため、待ち受けていた斉藤一以下の10数名の新撰組隊士と斬りあいになり、中井庄五郎が討ち死に、竹中与三郎が重傷、竹野寅太が軽傷を負いました。
一方新撰組では、宮川信吉が即死、舟津釜太郎が死亡、梅戸勝之進が重傷を負いました。即死した宮川信吉は近藤勇の従弟です。
しかし、三浦休太郎は軽傷ですみました。
明治維新後、三浦休太郎は明治政府に出仕し、元老院議官、貴族院議員を経て、第13代の東京府知事となったそうです。

