現在での最も有力な説は 「京都見廻組」 が実行したという説ですので、この説について紹介します。
当初、龍馬暗殺は、近藤勇が率いる新撰組が実行したと思われていました。
しかし、元京都見廻組の今井信郎(いまいのぶお)が龍馬暗殺を自供しました。
【今井信郎が自供する】
今井信郎は、函館戦争で敗れ明治3年2月に東京に送られてきました。
この今井信郎が、取調べの中で龍馬暗殺を自供したのでした。
今井信郎の自供によると、近江屋に向かったのは、京都見廻組組頭の佐々木只三郎、そして部下の今井信郎ら合計7名でした。
襲撃メンバーのほとんどは鳥羽・伏見に始まる戊辰戦争で死んでしまいました。
しかし、箱館で降伏した今井信郎が兵部省および刑部省の取調べで自供し、ようやく真相が明らかとなったのでした。
【今井信郎の自供内容】
その今井信郎の自供は、佐々木只三郎が率いる京都見廻組が近江屋に赴き龍馬と中岡を斬ったというものでした。
明治3年の供述では、
佐々木只三郎は十津川郷士の名刺を渡し、階段で待機した。
2階に上がって暗殺を「実行」したのは、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂隼之助の3名で、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎の3名は表口、裏口および住人脅迫の見張り役だった。
というものです。
つまり今井信郎の役割は実際に龍馬を殺害したというものではありませんでした。
自供を受けて今井信郎に課せられた刑は、静岡藩預かりの禁錮という軽いものでした。しかも明治5年には恩赦によって赦免されています。
こうした軽い刑に対しては疑問がだされています。
しかし、後には、今井信郎も2階に上がって、渡辺吉太郎、桂隼之助とともに龍馬を斬ったという風に変わりました。
証言の変化がありますが、今井の自供内容はとても詳細であるため、「京都見廻組」の説が現在では最も有力視されています。しかし、関係者の証言とも食い違いがあることから確実なことは分からず、現在でもいろいろな説があります。

