龍馬を暗殺したのは新撰組であるという説は当初、もっとも有力視された説です。
【「こなくそ」は伊予弁】 中岡慎太郎は、谷干城が駆けつけた時にはまだ意識がはっきりしていて襲撃の様子を語りました。
その中で、中岡慎太郎が襲撃を受けた際、その刺客が 「こなくそ」 と叫んだと言います。
この言葉は四国の言葉であるが、土佐とはちがうということでした。
この言葉は伊予弁だということから伊予出身の人間が疑われました。
【現場に残された鞘と下駄】
また現場に刀の鞘が一本残されていました。この鞘について調査したところ、新撰組脱退者で薩摩藩邸にかくまわれていた高台寺党(御陵衛士)の人々が、新撰組の原田佐之助のものだと断言しました。
また、現場に残された「瓢(ひさご)亭」の焼印がある下駄がも残されていました。
これを瓢亭に問い合わせると前夜に新撰組に貸したという回答でした。
これら3つの理由により、龍馬暗殺は新撰組の仕業と思われました。
しかも、「こなくそ」というのは伊予の方言であるから。実行犯は伊予出身の原田佐之助ということになりました。
【新撰組を強く恨む土佐藩】
このため、土佐藩は新撰組に対して強い恨みをもつようになります。天満屋襲撃事件も龍馬暗殺は新撰組によるものとの考えが基になっています。
さらに、慶応4年に近藤勇(上の写真、「国立国会図書館蔵」)が下総流山で新政府軍に捕まった際、武士の最後として切腹させようとした薩摩藩に対し、土佐藩は龍馬・慎太郎の暗殺犯に対して、そんな温情は必要なし、と強硬に反対しました。その結果、近藤勇は罪人として板橋で斬首されました。
しかし、新撰組には全員アリバイがあり、局長の近藤勇は完全否定したようです。
また、物証が数多くあることも不自然と思われています。
このような状況の上、昨日紹介したように、明治3年になって京都見廻組にいた今井信郎の自供があったことから、最近では新撰組実行説より京都見廻組実行説の方が有力になっています。

