雷門を入って、長さ約300メートルにわたってお店が続きます。
現在、仲見世には東側に54店、西側に35店、合計89店の店舗があるそうです。
【仲見世の名は、外と内の間という意味から】
仲見世という名称の由来ですが、昔は雷門の外と仁王門の内側にもお店があり、その間にあるので仲見世と呼ばれるようになったといわれています。ここで商売ができるようになったのは、江戸時代からです。
風雷神門と仁王門の間300メートルほどの参道には11の子院が並んでいました。
浅草寺境内の掃除の賦役を課せられていた近くの人々に対し、子院がお寺の軒先に床店(小屋がけの店)を出店する特権が与えました。これが仲見世の始まりで、貞享2年(1685)の頃といわれています。
【二十軒茶屋】
現在の仲見世の宝蔵門寄りの所に茶屋があり、20軒並んでいたことから二十軒茶屋と呼ばれていました。
江戸名所図会には、「二十軒茶屋は歌仙茶屋ともいへり。昔はこのところの茶店にて、「御福の茶まいれ」とて参詣の人を呼び掛けるとぞ。いまはその員(かず)二十余軒あるゆえに、二十軒茶屋といひならはせり」と書かれています。
茶屋では、看板娘を置いてお客を呼び込みました。
こうした看板娘の中には、「蔦屋のおよし」のように明和の三美人の一人に数えられるほどの美人がいました。
☆明和の三美人は、有名な「笠森お仙」、それと浅草奥山の楊枝屋『柳屋』の「お藤」、そして浅草二十軒茶屋の水茶屋『蔦屋』の「お芳」の3人を言います。
こういう子がいたので茶屋は繁盛したようです。
そのため、「おおたわけ茶店で腹を悪くする」といった川柳も残されています。
茶屋は天保以降は10軒になりましたが、名称は二十軒茶屋のまま明治18年まで続いたそうです。
【近代の仲見世】
明治18年5月、東京府は仲見世全店の取り払いを命じ、煉瓦造りの新店舗が12月に完成し近代仲見世が誕生しました。この赤れんがの仲見世も、大正12年の関東大震災により壊滅し、大正14年に現在の鉄筋コンクリート造りの商店街に生まれ変わりました。
昭和20年3月の戦災で内部は全部焼失しましたが、仲見世の人々の努力によりいちはやく復興し現在に続いています。
今では、写真のように大勢の人でにぎわっています。写真は、雷門から本堂方向を撮ったものです。

