この松も、広重が名所江戸百景に描き、江戸名所図会でも紹介されている松です。
【日蓮が袈裟を掛けた】
東急池上線洗足池駅を出て目の前の中原街道を横断すると洗足池公園があります。
その洗足池のほとり、洗足図書館の北側の妙福寺に、日蓮上人が休憩した際に、袈裟を掛けたと伝わる袈裟掛松があります。
現在は3代目の松であると言われています。
右の写真のように、かなり高さのある木になっています。
江戸名所図会には次のように紹介されています。
ただし、この中では、袈裟でなく腰を掛けてと書かれています。
『千束の池 本門じの西、一里余を隔ててあり、長さ東西へ3丁ばかり、幅南北へ五十歩ばかりあり。土人いう、往古(そのむかし)、この池に毒蛇住めり、後、七面に祭るといふ。また池の側(かたわら)に、日蓮上人の腰を懸けたまひしと称する古松一株(いっちゅう)あり。』
【千束池⇒洗足池】
千束郷は中世はかなり広い地域だったようです。千束池はその千束郷一帯をうるおす灌漑用の大池でした。
弘安5年(1282) 、甲斐の身延山を下り、常陸へ湯治に向かう途中の日蓮上人が、この池のほとりで休憩し、手足をすすいだという伝説があります。この伝説とセンゾクという音が結びついて、この池を「洗足池」と呼ぶようになったという有名な説があります。
江戸時代は「千束池」と書かれていますが、現在は「洗足池」と表記されています。
【「千束の池 袈裟掛松」】
広重の名所江戸百景の「千束の池 袈裟掛松」で袈裟掛松を描いています。
画面右中段の柵に囲まれて立っているのが、袈裟掛松です。
手前の人馬や駕籠が行き交う道が中原街道です。東海道が海岸沿いを通って江戸に入る街道ですが、中原街道は、丘陵地を通って江戸にはいる街道です。徳川家康が江戸に入る際にも中原街道を使用したそうです。
絵の遠景として書かれている山が何という山であるか特定するのは困難なので、構図をよくするために広重が描いた山であるという説もあります。
【海舟が愛でた地】
この地の風景を愛した勝海舟の墓が袈裟掛松の北側にあります。
洗足池駅からは徒歩10分程度です。
勝海舟は江戸城無血開城のため、池上本門寺に滞在する西郷隆盛と談判をするために、この地を通りました。
その際に、ここの風景を大変気に入りました。
そのため、海舟は、明治になってから、ここに別荘を建て、亡くなった際には、ここに葬られたのでした。
海舟の墓の近くに海舟が建てた「西郷隆盛留魂碑 」も移設されています。
緑が「袈裟掛松」、青が「勝海舟墓」です。