笠間稲荷神社は、東京メトロ「人形町」駅から徒歩4分です。
【笠間藩牧野家が勧請】
江戸時代、ここに笠間藩牧野家の下屋敷がありました。
牧野家は、5代将軍綱吉の側用人であった牧野成貞の子孫の家柄で、成貞の長男貞通が初代藩主ですす。
また笠間藩は、赤穂浪士で名高い浅野内匠頭のお祖父さん浅野長直が赤穂藩を領する前に藩主であったことがある藩です。
その笠間藩牧野家の8代藩主牧野貞直が、幕末の1859年(安政6年) に、常陸の笠間稲荷神社より分霊を受けて建てたのが笠間稲荷神社です。
笠間稲荷神社は、茨城県の笠間市にあり、日本三大稲荷(他は伏見稲荷神社、佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社)のひとつとして広く信仰を集めています。
笠間稲荷神社は別名紋三郎稲荷と言われます。
宮司さんの話によると、笠間藩主の弟に門三郎という人がいて厚く笠間稲荷神社を信仰するとともに領内にもひろめました。その門三郎さんの門がいつしか紋にかわり紋三郎稲荷と呼ばれるようになったとのことでした。
東京の笠間稲荷神社の講の名前は「紋三郎講」となっていました。
【寿老神】
笠間稲荷神社には、七福神のうちの寿老神が祀られています。
一般的には、寿老人とかかれますが、笠間稲荷神社では、寿老神と書かれています。
福禄寿の説明の中で、福禄寿は「南極老人星」の化身だといいましたが、寿老人も、「南極老人星」の化身だと言われています。
昔の中国の人たちは、この星を世の中が平和の時にだけ出現するめでたい星と信じ、また、皇帝の寿命を支配する星と信じていました。
「南極老人星」が、唐の時代には、黒い頭巾をかぶって杖をつく老人の姿で描かれるようになりました。
これが寿老人です。そのため、寿老人は福禄寿と同体異名という説もあります。
寿老人の神使は鹿ですので、鹿が一緒にいると寿老人、鶴や亀がいると福禄寿として見分けます。
笠間稲荷神社では、寿老神の神像は安置されていないのだそうです。寿老神がいると考えながら手を合わせてくださいというのが宮司さんのお話でした。
【弁慶像】
笠間稲荷神社に行く途中弁慶像がありました。 甘酒横丁を東に入り浜町川を暗渠にした緑地帯の中央に建てられていました。
人形町周辺には、江戸時代は芝居小屋や人形芝居小屋がありました。
芝居小屋は、中村座と市村座があり、人形芝居小屋には、薩摩座や結城座などがありました。
人形を操る人形師や人形を創る人形師が多くいたため人形町と呼ばれるようになったといいます。
そうした縁から、弁恵像が建てられたようです。