今日からは、人形町の史跡をご案内したいと思います。
今日は、 西郷隆盛の屋敷跡 を紹介します。
【広い屋敷に2年間ひっそりと起居】
西郷隆盛の屋敷跡は、現在は日本橋小学校となっています。
人形町駅A2蕃出口またはA6番出口からそれぞれ1分、水天宮駅8番出口からは3分です。
日本橋小学校の玄関前に、中央区教育委員会の説明板が設置されています。
日本橋小学校は、9階建ての建物で中央区の複合施設となっていて、建物内に、日本橋図書館、サウナ付きの区立プールさらに日本橋社会教育会館などが一緒に設置されています。
この日本橋小学校の敷地は、江戸時代、姫路藩酒井家の下屋敷でした。
その後明治になってからは西郷隆盛の屋敷でした。
西郷隆盛は函館戦争が終了すると残留要請を断り故郷の鹿児島に帰り、のんびりとした生活をしていました。
そんな西郷を新政府がほっておくわけはありませんでした。再三、新政府への出仕要請をします。
西郷はその要請に応じず難航しましたが、弟西郷従道の説得に応じて明治4年(1871)に上京して参議に就任しましたた。
その時から西郷隆盛は日本橋小網町に住みました。
そして、明治6年に征韓論に敗れて鹿児島に帰るまでの約2年間ここに起居しました。
2600坪もある広い屋敷には書生を15人ほど住まわせ、下男を7人雇い、猟犬数頭を飼っていたといわれます。
【「翔ぶがごとく」】
司馬遼太郎の「翔ぶがごとく」の中に、この日本橋小網町の屋敷の様子が書かれています。
「西郷は日本橋小網町の旧武家屋敷に書生同然の姿で住んでいた。・・・ 西郷はその屋敷はぜんぶ使わず、長屋の一角だけを居所にしており、郷里から妻子さえよびよせていなかった。」と書かれています。
また、西郷隆盛が、小網町の屋敷を退去するにあたって、西郷は自分は商人ではないから屋敷を購入した値段で売ろうとして買い手が驚いてしまったとも書かれています。
西郷は250円で日本橋小網町の屋敷を払いさげてもらったので、その価格で売ろうとしました。250円というのは、この地区の地価の相場から言えば10坪ほどの値段でした。ところが西郷の屋敷は3000坪はあるであろう大きなやしきであるため、相手が「人を馬鹿にしては」こまるといって下僕の熊吉が困り西郷に相談する場面があります。
青い場所が「西郷隆盛屋敷跡」の説明板がある場所です。