「お竹大日如来」 について紹介します。
【於竹大日如来井戸跡】
小津和紙の一角にあるのが「史跡 於竹大日如来井戸跡」です。
小津産業株式会社の本社の敷地は、小津和紙の創業の地ですが、江戸時代初め、創業者小津清左衛門の主人佐久間善八の屋敷でもありました。
佐久間善八は町名主でもありました。
江戸時代の初めの元和寛永のころ、この佐久間善八の家に、お竹という下女がいました。お竹は信心深く、食べ物を大切に扱い、自分の食事を減らして飢えに苦しむ者に与えたそうです。
そのころ、武蔵国比企郡に乗蓮という聖(行者)がおり、生身の大日如来を拝みたいと思って出羽山に何年も通いました。ある年、例のごとく出羽山に登ったところ、不思議な夢を見ました。
「お前が私の姿を見たいならば、これより江戸に上って、佐久間家のお竹という者を拝め。」
乗蓮は、これこそ大日如来の託宣と歓喜し、仲間の玄良坊とともに江戸に上り、佐久間家を探し出して、お竹を礼拝しました。
すると、お竹の全身から光明が発せられました。二人はお竹を何度も礼拝し、感激して帰っていきました。
翌日から、お竹は部屋に籠もって念仏に専心し、寛永15年3月21日、亡くなったそうです。
【お竹大日如来の出開帳】
お竹の死後、佐久間善八は等身の像を彫刻し持仏堂に納めて、毎日供養しましたが、その後、羽黒山正善院黄金堂境内に、お竹大日堂を建立してその像を安置しました。
その後、羽黒山の山伏は、お竹大日堂を宣伝するため、江戸への出開帳をおこないました。元文5年(1740)を皮切りに、安永6年(1777)には芝愛宕の円福寺で、文化12年(1815)には浅草寺境内の念仏堂で、嘉永2年(1849)には回向院と、都合4回の出開帳がおこなわれ、その際に略縁起やお札が頒布されました。
とくに嘉永2年の出開帳には、お竹大日如来像ともに、お竹の「遺品」である、流しに結びつけてご飯や野菜の屑を集めたという麻袋や、お竹が着用したという前垂れなども展示されたといいます。
絵巻も、絵解きをするために出開帳に合わせて製作されたものでした。
この出開帳は、江戸の人びとの心を掴んで大当たりとなり、この縁起を素材とした芝居や講釈、錦絵、小説などがたくさん生み出され、明治になっても、坪内逍遙の「お竹大日如来一代記」が上演されるなどしました。
しかし、時の流れとともにその記憶も薄れ、今日では、お竹の物語を知る人はほとんどいません
小津史料館では、こうした「お竹大日如来」について詳しく説明していますので、小津史料館にも立ち寄っていただくとよいと思います。
右の写真は、小津史料館に飾られているお竹大日如来の説明パネルです。
青印が「史跡 於竹大日如来井戸跡」の碑です。

