【昨年末設置された坐像】
本所松坂町公園に、昨年末に吉良上野介の像が設置されました。
この像は両国3丁目町会、両国吉良邸跡保存会などが330万円かけて作成しました。
そして、昨年12月12日に除幕式が行われたものです。

座像は高さ75センチ、横幅116センチあるそうです。当初は銅製の計画だったそうですが、制作費が高くなるため、ファイバープラスチックに変えて製作されたそうです。
この像は、吉良町の華蔵寺にある吉良上野介の像(最下段の写真)をモデルにつくられたもので、華蔵寺にある吉良上野介の像は、吉良上野介が50歳の時に作らせたものだそうです。
【上野介の略歴】
吉良上野介義央(よしなか)は、 寛永18.年(1641.) に、吉良若狭守義冬の子としてうまれました。吉良家は足利一族の名門で,祖父義弥以来高家を務めていました。
明暦3年(1657) 17歳の時に従四位下侍従に叙任され,上野介と名乗りました。
寛文8年(1668)に家督を継ぎ、4200石を知行し、天和3(1683)年より43歳で高家肝煎を務めました。
上野介の妻は上杉定勝の娘であり,子の綱憲は上杉家の養子となっていて、上杉家との関係は非常に深いものでした。
元禄15年(1702)12月15日に赤穂浪士に討たれたのは、61才の時でした。
【高家とは】 高家は、旗本ですが、大多数の旗本が若年寄の支配下にあるのに対して、老中の支配下にあり大名と同じ扱いになります。
高家は江戸時代以前に活躍した武家名家の子孫や公家の子弟などから選ばれた家で、26家ありました。
おもに朝廷関係の儀礼や交渉を担当し、勅使・院使の接待、京都への使者、旗本の官位の手続きなどを担当していました。
高家のうち、実際に朝廷に関する仕事を担当した家を「奥高家」といい、10数家ありました。この高家をまとめたのが高家肝煎(きもいり)で三家ありました。
吉良上野介も高家肝煎でした。
その他の高家は、「表高家」と呼ばれ、日常的な仕事はなく、無役の待命組だったそうです。

