鼠小僧次郎吉の墓のすぐそばですが、説明板もないため、気がつく人は少ないと思います。
山東京伝・京山は兄弟です。この二人は江戸の有名人ですので、今日は、この二人について少しご紹介をしておきます。
【京伝は江戸のマルチ作家】
兄の山東京伝は、宝暦11年(1761)に深川木場で生まれました。
山東京伝というのは、住まいが江戸城の紅葉山の東なので山東、さらに京橋の近くにすむ伝蔵なので京伝と名乗りました。通称は京屋伝蔵といいました。
山東京伝の本名は岩瀬醒(さむる)といいます。左の写真の左側が山東京伝のお墓ですが、岩瀬醒と本名が刻まれています。
その右が、弟の山東京山のお墓です。
14・5歳の頃に、浮世絵師北尾重政(しげまさ)に弟子入りし浮世絵をまなび、北尾政演(まさのぶ)と名乗りました。
その後、戯作に手を染め、黄表紙作家として脚光をあび、恋川春町(こいかわはるまち)、朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ)と並んで、天明・寛政年間の戯作者の中心人物となりました。
しかし、松平定信の寛政改革により、洒落(しゃれ)本が風俗をみだしたとして手鎖(てぐさり)50日の刑をうけました。
その後は、読本(よみほん)作家に転向し、曲亭馬琴に対抗できる唯一の人物でした。
そして、文化13年(1816)に56歳でなくなりました。
代表作に「江戸生艶気樺焼(えどうまれうわきのかばやき)」、「通言総籬(つうげんそうまがき)」などがあります。
【90歳の長命を全うした京山】山東京山は、京伝の弟で、本名は岩瀬百樹といいました。
初めは、兄の京伝に倣って読本(よみほん)や滑稽本(こっけいぼん)を書いていましたが、後には合巻に専念し多くの合巻(ごうかん)を執筆しました。
また、鈴木牧之の『北越雪譜』の刊行の際には、「京山人百樹」の名義で添削・修正を行いました。
そして、安政5年(1858)に90歳でなくなりました。
【京伝机塚の碑】
浅草の浅草神社の裏には、山東京山が京伝が没した翌年の文化14年(1817)にたてた「山東京伝机塚の碑」があります。
この碑の表面には「9歳の時に寺子屋に入った際、親の買ってくれた机を生涯愛用し、この机で百部を越える戯作を書いた。しかし50年近くも使ったので、ゆがみ、老い込んださまは哀れである」という意味の京伝の文と「耳もそこね あし(足)もくしけて もろともに 世にふる机 なれも老いたり」の歌が記されているようです。
ところで、江戸検一級2期会のハカマオー! ブログにお墓の記事がいくらかかけるようになったよ。
少しハカマオーに近づいたかな!

