赤穂浪士は、江戸時代から現代まで、多くの歌舞伎、講談、映画、TVドラマに取り上げられています。
そうした中で、私自身もそうですが、ドラマの中のことが史実のように思われているものが数多くあります。
そうしたもののうち、討ち入り時の出来事に限定して、ドラマの話と事実の違う点を少し紹介してみます。
【討入時の装束は火事装束】
討ち入りの時の赤穂浪士の装束は、いわゆるダンダラ模様と言われる黒地に白字の入山型の模様の小袖を着て、襟に「大石内蔵助良雄」などと書いた装束で描かれます。
しかし、実際に統一されていたのは火事装束であることぐらいでした。
これは吉良邸に向かう途中に見とがめられた場合、「火消し」であるといって言い逃れる予定でした。
【討入時は晴れていた】
また、映画・TVドラマでは、赤穂浪士が雪が降る中を吉良邸に向かうように描かれますが、数日前に雪は降ったため、足元には雪が残っていたといわれていますが、討ち入りの午前4時頃には、空は晴れていて、14夜の月が輝いていたそうです。
江戸時代は陰暦ですので、15日が1満月になります。その前日の月ですので、月は明るく輝いていたことでしょう。
【陣太鼓は鳴らなかった】
また、討ち入りの時に、表門の前にいる大石内蔵助が山鹿流陣太鼓を打ち鳴らします。
これを合図に、表門隊・裏門隊がいっせいに討ち入りします。
これも討ち入りの時の名場面です。
しかし、山鹿素行が赤穂に流されていたため、大石内蔵助は山鹿流兵法を山鹿素行から習っていますが、討ち入りの時には陣太鼓は鳴らすことはなかったそうです。
これは、赤穂浪士が持っていた道具類の中に陣太鼓は入っていなかったため、そう言われているそうです。