お札やお守りの売店のちょうど裏側になるため、この石柱に気がつく人はあまりいないかもしれません。
今日は、この 「迷子しるべ石」 のお話です。
【迷子情報の交換】
「迷子しるべ石」というのは、江戸時代に迷子の情報を交換するための石柱です。
石柱の右には、「志らする方」と書いてあります。そしてその反対側には「たずぬる方」と書いてあります。
「私のところに、このような迷子がいます。」という内容の紙を「志らする方」の側に貼り付けていきます
反対側の「たずぬる方」には、迷子になった子供の人相や特徴を書いた紙を貼りつけておきます。
この紙をみて、迷子を捜したわけです。
これは、江戸時代には仁王門(現在の宝蔵門)の前にありましたが、昭和20年の戦災で倒壊したため、昭和32年に復元されたものです。
こうした石柱は、人通りの多い場所に設置されており、湯島天神や日本橋の一石橋(いっこくばし)には、江戸時代に建てられたものが現存しています。
【安政の大地震の被災者の慰霊碑】
この「迷子しるべ石」の表面には、「まよひこのしるべ」と書かれたうえに「南無大慈悲観世音菩薩」と書かれています
また、裏面には、安政7年(1860)3月、新吉原の松田屋嘉兵衛が建立したと刻まれています。
これらが「迷子しらべ石」に刻まれているのは、安政の大地震で亡くなった新吉原の遊女の霊を慰める意味もあったからです。
【安政の大地震】
安政の大地震は、安政2年(1855)10月2日の夜10時ごろ、関東地方南部で発生したM6.9の直下型の大地震です。
安政期には多くの大地震が発生していて、それらの大地震と区別するため、「安政江戸地震」とも呼ばれます。
震源は東京湾北部・荒川河口付近だと考えられています。被災したのは江戸を中心とする関東平野南部の狭い地域でしたが、江戸の被害は大きかったようです。
「吉原地震焼亡之図」 国立国会図書館蔵江戸大地震之絵図より
江戸での死傷者約7000人、倒壊家屋約1万5000戸にも及んだと言われています。
被害の大きかったのは、本所、深川、浅草、下谷などの下町地区でした。
特に被害が大きかった新吉原では、廓がほとんど焼失し、客と遊女が685人も死亡したそうです。しかし、実態はもっと多かったとも言われています。
松葉屋の遊女は大半が焼死し、三浦屋では遊女を穴倉に入れて助けようとしましたが全員死亡してしまったそうです。
上の「吉原地震焼亡之図」は、吉原の被害の様子を描いたものですが、地震と火事のすごさが表現されています。消防防災博物館のHPより転載させていただきました。
「迷子しるべ石」は、こうした安政の大地震でなくなった遊女たちの霊を慰めようとして松葉屋が建立したものです。
「迷子しるべ石」には、こんな悲しい背景もあったのです。
東北関東大震災では多くの方がなくなっています。こころからご冥福をお祈りいたします。
「南無観世音菩薩、南無観世音菩薩、南無観世音菩薩」

