これらは、順次、記事にしていきますが、今日は、「上野」のお話です。
【寛永寺の桜は天海が植えた】
上野は、江戸時代のはじめには、「忍岡」と呼ばれて、津藩藤堂家などの下屋敷がありました。
ここに、寛永2年(1625)に寛永寺が建立されました。天海大僧正の進言によるものといわれています。
天海は、比叡山を模して寛永寺を建立しました。それは、お寺の名称にあらわれています。
比叡山に対して「東叡山」、「延暦」は建立時の年号ですので、それにならって「寛永寺」と名づけられました。
この上野の地に桜を植えたのは天海大僧正であると言われています。
吉野山から移植したと言われています。 つまり、現在植えられているソメイヨシノと異なりヤマザクラが植えられました。
【江戸時代は音曲禁止】
上野が花の名所として市民に愛され、行楽として花見に出かけるようになったのは寛文の頃からといわれています。そして、元禄期になると「花の雲、鐘は上野か浅草か」と芭蕉の句に詠まれたように上野は桜の名所となりました。
上野の山に花見では、羽織小袖などを木陰に掛け並べて幕として利用し、この小袖幕を張りめぐらせて毛氈を敷き、その上に座って酒を飲んだりご馳走を食べたりしながら花見を楽しみました。
元禄時代に活躍した戸田茂睡という歌人が書いた「紫の一本(ひともと)」という本に
『幕の多きは300余あり。少なき時は200あまりあり。このほかにつれだちたる女房の上着の小袖、男の羽織を、弁当かかげたる細引きにとほして桜の気にゆひつけて、かりの幕にして、毛氈・花むしろしきて酒のむなり。鳴物はならず。小唄・浄瑠璃・踊り・仕舞はとがむることなし」 と書かれています。
しかし、寛永寺は、将軍家の菩提寺であったため、花見の様子は、今とは少し違ったようです。
江戸時代のはじめの頃は、音曲も許されていたようですが、天和((1681~1684)を過ぎる頃には、音曲は禁止されたようです。
さらに、暮六つになると、門が閉められ、山内にいた人たちは、山同心という寛永寺お抱えのガードマンに退去させらてしまいました。
そこで、 「千金の時分 追い出す花の山」 という川柳もあります。
上野は江戸の桜の名所として、「東都歳時記」や「江戸名所花暦」にも書かれています。
「東都歳時記」には、
『当山の桜は、その昔、台命(将軍の命令)によりて、吉野の苗をうえさせられし所とぞ、盛りのころは貴賎雅俗ここに群り、花下に遊宴して、夕照の斜なるを惜しむ」 と書かれています。
「江戸名所花暦」には
『東都第一の花の名所にて、彼岸桜より咲き出でて一重八重追々咲き続き、弥生の末まで花のたゆることなし』 と書かれています。

上野のお山は大勢の花見客でにぎわっていました。
上の写真は桜並木の様子です。奥に見えるのが「国立博物館」です。

