飛鳥山は、江戸庶民のお花見場所として、すごく人気がありました。
飛鳥山は、江戸市中からは2里(約8キロ)と少し距離がありますので、江戸っ子はちょっとした遠足という気分でお花見に出かけました。
日曜日は桜満開で大勢の人が花見をしていました。

【飛鳥山は吉宗の発案】
飛鳥山に、本格的に桜が植えたのは、8代将軍徳川吉宗です。
享保5年(1720)の徳川吉宗による鷹狩復活にともない、将軍の御膳所となる王子・金輪寺の周囲に桜270本が植樹されました。
翌年の享保6年(1721)には、吉宗の意向により、江戸の人々の遊園とするため、飛鳥山全山に1000本の桜が植えられました。

やがて、元文2年(1737)3月、土地も旗本の野間氏領から王子権現の所領へと移され、飛鳥山は老若男女・貴賤を問わず訪れることができる桜の名所として広く開放されました。
上野の山は、将軍家の菩提寺である寛永寺の中ですので、音曲が禁止されていましたので、「飲めや歌え」の花見ができませんでした。
しかし、飛鳥山はそれができました。
元文3年には、水茶屋54軒、揚弓場3ヶ所が許可され、音無川にも水茶屋が9軒許可されました。
こうしたことから、庶民が大いに花見が楽しめる場所となり、江戸っ子の人気を集めました。
江戸名所花暦にも
「八重一重の桜数千株を植えさせられ、花盛りのころは、木の間に仮の茶店をしつらいて群集す。遥かに東北をながむれば、足立郡の広地、眼下に見えて、荒川のながれ白布を引くごとく、佳景いふばかりなし」 と書かれています。
【難解な飛鳥山碑】
吉宗は、飛鳥山が旗本野間氏領から王子権現の所領になった元文2年(1737)3月11日に、自らの事業の成果を確認するかのように、飛鳥山で酒宴を催しました。
また、同年閏11月には、吉宗の事蹟を顕彰するための「飛鳥山碑」が建てられました。成島道筑(なるしまどうちく)による碑文には、紀州・熊野につながる飛鳥山の由緒や桜植樹と所領替えの事績について刻まれており、紀州出身の将軍・吉宗の威徳を広く示す意味をもっていました。
碑に使われた石は、江戸城吹上庭園にあった紀州産の青石です。
この石碑は現在も残っておりますが、江戸時代には飛鳥山のランドマークともなり、浮世絵などで芝山に桜と石碑を描けば飛鳥山を示しました。
この飛鳥山碑は難解な碑文であり、
「飛鳥山 何と読んだか 拝むなり」
「この花を 折るなだろうと 石碑みる」
と川柳に読まれたほど、江戸時代から難解な碑文として知られていました。
【桜賦の碑】
また、近くに、佐久間象山作の桜賦(ふ)の石碑があります。この賦で象山は、桜の花が陽春のうららかな野山に爛漫と光り輝き人々の心を動かし、日本の全土に壮観を呈しその名声は印度、中国にまで響き、清く美しいさまは他に比類がないと云い、当時象山は門弟吉田松陰の密出国の企てに連座し、松代に蟄居(ちっきょ)中であったので、深山幽閉中で訪れ来る人もないが自ら愛国の志は堅く、この名華の薫香のように遠くに聞こえると結んでいるそうです。
この賦は象山が50歳の万延元年(1860)の作と云われています。
桜賦の石碑は、勝海舟らによって、建てられたものです。
【飛鳥山北の眺望】 右は、歌川広重が描いた名所江戸百景の「飛鳥山 北の眺望」です。
飛鳥山の東方に広がった眺望は見事でした。眼下に広がる三河島田圃から関東平野が見渡すことができした。
さらに遠くには右の男体と左の女体の二つの頂をもつ筑波山が見えました。
この絵はちょうどお花見時です。
散策しながら花見をする人、毛せんを敷いて宴会をする人たち、山の端からかわらけ投げをする人たちなどが描かれています。
最後に、飛鳥山の名前の由来ですが、ここに飛鳥明神が祀られていたために名付けられたとのことです。
飛鳥明神とはどのような神様なのかご存知の方がいたら教えてください。

