伝通院には、有名な千姫のお墓があります。
千姫は、2代将軍秀忠の長女です。
母は、今年の大河ドラマ「江~戦国の姫たち~」の主人公の江(崇源院)です。
千姫は慶長2年(1597)に、伏見で生まれました。この頃は、豊臣秀吉が生きており、江も江戸でなく伏見にいたのでした。
慶長3年(1598)病床にあった豊臣秀吉は秀頼と家康の孫女千姫との婚約を結びました。
秀吉が死んだ後もこの約束は守られ、慶長8年(1603)7歳の千姫は11歳の秀頼に嫁ぎました。二人は従兄弟関係にありました。
家康が豊臣氏を攻めた大坂冬・夏の陣に千姫は大坂城にこもっていましたが、元和元年(1615)5月、落城の前夜脱出し、家康の陣営に戻り、ついで7月に江戸に移りました。阿茶局をはじめ侍女数百人が付き添い、安藤対馬守重信が護衛していました。
翌元和2年、伊勢桑名城主本多忠政の長子忠刻(ただとき)に再嫁しました。千姫20歳、忠刻21歳でした。
大坂城脱出の際、家康が「千姫を救い出したものに千姫を与える」と言ったのを聞いた坂崎出羽守直盛が城内に入り救出してきましたが、このとき顔に火傷をおい、千姫はそれを嫌い本多忠刻に嫁いだので、騒動を起こし、殺害されたとされています。
しかし、これは異説も多く、救出したのは坂崎出羽守ではないという説もあり、千姫の公家への嫁入りをまとめた坂崎出羽守が、面目をつぶされ怒って騒動を起こしたと言う説もあります。
元和3年に忠政が姫路へ転封となったので忠刻とともに姫路城に住むこととなりました。
千姫と忠刻との間には勝姫と幸千代が産まれましたが、長幸千代が3歳で病気で亡くなり、さらに忠刻も病に倒れ、31歳という若さで亡くなりました。
寛永3年(1626)、30歳の千姫は勝姫とふたたび江戸城に戻り、剃髪して天樹院と称し、勝姫と二人で江戸城内の竹橋御殿に住みました。
ところで、忠刻がなくなった後、江戸に戻った千姫は乱行をほしいままにし、多くの美男を誘い込んで、遊蕩三昧の一生を送ったという話もあります。
「吉田通れば二階から招く、しかも鹿の子の振り袖で」という俗謡は、千姫の乱行をうたったものと言われています。
しかし、これはまったく根拠のない話であると言われています。 こんな俗説がなぜたてられたのか疑問に思います。
寛永5年(1628)に勝姫は池田光政の元へ嫁ぎ、千姫(天樹院)は一人暮らしとなりました。正保元年(1644)には、3代将軍家光の側室のお夏の方(後の順性院)が三男綱重を懐妊しました。
この時、家光は厄年にあたっていたため、災厄を避けるため千姫(天樹院)を養母としました。
そのため、お夏の方(後の順性院)と綱重と暮らすようになります。
落飾して天樹院となった千姫は、寛文6年(1666)に70歳でなくなりました。
法事は、千姫(天樹院)が養母となっていた綱重が執り行ったそうです。
千姫(天樹院)は、伝通院に葬られています。本堂西北の少し低くなった場所に、千姫の墓があります。
五輪の大きなお墓です。

