その多くは、将軍の正室や側室です。
今日は、3代将軍家光の正室であった鷹司孝子(後の本理院)についてご案内します。
鷹司孝子は、初めて、摂関家から将軍正室に迎え入れた人です。
3代将軍家光は、「生まれながらの将軍」であったため、大名より位の高い摂関家から正室が求めたのです。これ以降、将軍の正室は、摂関家または宮家から選ばれるようになりました。
孝子は慶長7年(1602)に京都で生まれました。父は関白を勤めた鷹司信房です。
元和9年(1623)12月に西の丸に入り、寛永2年(1625)に将軍家光と正式に婚礼し、御台所となりました。孝子23歳、家光は21歳でした。しかし、将軍家光との仲は結婚当初からうまくいかず、実質的な夫婦生活はありませんでした。
孝子は大奥に住まず、吹上の広芝に設けられた御殿に住まされ、「中の丸殿」と呼ばれました。
幕府の記録でも、「御台所」とは記録されていないそうです。
このため、当然のごとく、家光との間に子供はありませんでした。
このように、夫婦仲が円満でなかったのは、家光と孝子の間に子ができ朝廷の力が増大するのを恐れた幕府側が作為的に不仲にしたという説や家光が男色好きであったためという説があります。
慶安4年(1651)4月に、家光が48歳でなくなると、孝子は落飾し「本理院」と名乗りました。
延宝2年((1674 )に73歳でなくなりました。
本理院のお墓は、千姫(天樹院)のお墓の北側に南に面して建っています。
孝子の弟、鷹司信平は、姉を頼って、江戸に下り、旗本に取り立てられ、松平の苗字を名乗ることが許されました。信平の家系は、鷹司松平家と呼ばれ、上野吉井藩の藩主として幕末まで続きました。

