【輪王寺宮公現法親王が隠れる】
明治維新の時、自證院の住職であった亮栄僧正は、輪王寺宮公現法親王 に従って、駿府の有栖川宮を訪ねて、徳川慶喜の赦免をお願いしました。また、上野戦争で彰義隊が敗北した際に、輪王寺宮公現法親王は、江戸湾にあった幕府軍艦の「長鯨丸」に乗って、東北に向かいいました。
この時に、長鯨丸に乗る直前に隠れていたのが、この自證院でした。
【阿弥陀三尊板碑】
庫裏の前に、新宿の有形文化財に指定されている阿弥陀三尊板碑(いたび)がありました。
その説明板には次のように書かれていました。「弘安6年(1283)の紀年銘を有する区内最古の板碑で、下部は欠損しているが、高さは1.2メートルとかなり大規模のものでsる。
山形の下に二条線が切りこまれ、天蓋の下に阿弥陀・観音・勢至の三尊の種子がそれぞれ蓮台を配して刻まれ、その下に紀年銘が記されている。
天蓋・種子ともに古様を示し、板碑全体が鎌倉中期の特徴を持っている。
当時の市谷付近に有力武将が居住した可能性を示唆し、、また浄土信仰の普及を示すものとして貴重である。
なお三尊種子板碑両脇の「栄寿院妙山准心大姉」「元禄八乙寅年六月十九日」の文字は江戸時代の追刻である。」
【小泉八雲旧居跡】
自證院の近くに、小泉八雲が明治時代に住んでいました。
その碑が、成女学園の中にありました。自証院のご住職のご紹介で、成女学園に断り、見させてもらいました。成女 園の正門横の高いところにありました。
小泉八雲は本名をラフカディオ・ハーンといい、ギリシャのレフカダ島で生まれました。
そして、明治23年に来日して松江で教員として務めました。
その小泉八雲が、明治29年に東京大学文学部の講師として招jかれ上京した時に、東京で初めて住まいを構えたのが、この地です。
小泉八雲は、隣接する自證院の風致をこよなく愛し、境内を散歩などしていましたが、この地が開発により自然が失われていったため、明治35年に、5年間住み慣れたこの地から西大久保に転居してしまったそうです。

