【松の廊下】
現在は、木陰の中に、「松之大廊下跡」と書かれた石碑が建っているだけです。
そのため、石碑だけの説明では納得しませんので、松の廊下の様子を話します。一番びっくりするのは、松の廊下が畳敷きであったことです。
松の廊下はL字形をした廊下で、幅2間(約3.6メートル)長さ10間半(役9メートル)の廊下が東西に、幅2間半(約4.5メートル)長さ17間半(約31.5メートル)の廊下が南北につながり、全長が約50メートルもありました。そして、広さは90畳ほどありました。
さらに、松の廊下の説明で、刃傷事件の様子は欠かせませんので、刃傷事件がどうであったかについても説明します。
そのために、刃傷事件の下調べも欠かせません。
今回は、刃傷事件に遭遇し浅野内匠頭を取り押さえた梶川与惣兵衛の日記も読んでおきました。
今日は、その梶川与惣兵衛の日記のことを、吉田豊・佐藤孔亮氏著の「古文書で読み解く忠臣蔵」を元に書いてみます。
【刃傷の瞬間】
浅野内匠頭が吉良上野介に斬りかかった瞬間のことについて梶川与惣兵衛が日記に書いてします。
「誰哉らん吉良殿の後より此間の遣恨覚たるかと声を懸切付申候其太刀音ハ強く聞候得共後に承候へは存の外切れ不申浅手にて有之候我等も驚き見候へは御馳走人の内匠頭殿也、上野介殿是ハとて後の方江ふりむき被申候処を又切付られ候故我等方前へむきて逃んとせられし所を又二太刀程切られ申候、上野介殿其侭うつむきに倒れ被申候吉良殿倒れ候と大方とたんにて、其間合ハ二足か三足程の事にて組付候様に覚申候右の節我等片手ハ内匠殿小刀の鍔にあたり候故、夫共に押付すくめ申候」
口語で要約すると次のようになります。「誰だか知らないが吉良殿の後ろから「この間の遺恨おぼえたるか」と声をかけてきりつけました。(その太刀音が強く聞こえましたが、後で聞くところでは思いのほか浅手だったそうです。)
驚いて見ると、勅使饗応役の浅野内匠頭殿でした。
吉良上野助殿が振り向いたところをまた切りつけられ、私の方へ向いて逃げようとしたところを、又二太刀ほど切られました。上野介はそのままうつむきに倒れました。
私は、浅野内匠頭との間が二足か三足ほどなので、組み付いたように覚えています。 そしたら私の片手が内匠頭の小サ刀の鍔にあたったため、それとともに押し付けすめました。」
刃傷事件が起きた時の様子が生々しく書かれています。
梶川与惣兵衛は、この記録の通り、浅野内匠頭を組み伏せたため、この時は700石の旗本でしたが、500石加増されました。
【組み伏せたことの弁明】
しかし、 梶川与惣兵衛は、赤穂浪士が吉良邸に討ち入り赤穂浪士の評判が高くなると、梶川与惣兵衛が浅野内匠頭を組み伏せたため、「情け知らず」などと世間から批判されるようになります。
そこで、日記の中に、次のような、組み伏せたことを弁明するような記載があります。
「此時の事共後ニ存出し候に、内匠殿心中察入候、吉良殿を討留不被申候事嘸々無念に有しならんと存候、誠に不慮の急変故前後の不及思慮右のことく取扱候事無是非候」
口語訳すると、「この時のことを後に思い出して、内匠頭殿の心中を察すると、吉良殿を討ち留められなかったのはさぞ無念であったろうと思います。不慮の急変のため前後の思慮に及ばなかったことは致し方なかったと考えています」となります。
【上野介が斬られた順序】
なお、梶川与惣兵衛氏の日記によると吉良上野介が斬られた順序は
①吉良上野介の背後から斬られ ②振り向いたところを又斬られ ③梶川与惣兵衛の方へ向いて逃げようとしたところをまた斬られという順になっています。
しかし、吉良上野介の治療にあった外科医の栗崎道有が書いた「栗崎道有記録」によると、吉良上野介は①最初にみけんを斬られ②横うつ向きになる所を2の太刀で背中を斬れたとなっています。

