例えば、江戸城の天守が燃えたのが明暦大火です。
両国橋が架けられたのは明暦大火からの反省によるものです。
回向院が建てられたのは、明暦の大火の犠牲者の供養のためです。
日吉神社が赤坂に移転したのは、半蔵門外にあった社殿が明暦の大火で焼失したからです。
このように、明暦の大火というのは、江戸に大きな影響を与えています。
そこで、これから、明暦に大火について書いていきます。
【明暦の大火は江戸最大の大火】
明暦の大火は、明暦3年(1657年)、江戸幕府が開かれてから54年たった年に起きた江戸最大の大火です。
本郷丸山本妙寺の振袖の供養から火事が起きたという説があり、別名「振袖火事」とも呼ばれます。
この大火による被害は甚大で、大名屋敷160、旗本屋敷約810が燃え、町は800余町、神社仏閣300余、橋60余が焼失し、江戸市中の6割が焼失しました。明暦の大火による死者は10万人をこえたと言われています。
上の写真は、火元とされた本妙寺です。現在は染井にあります。
「明暦の大火」については、講談社現代新書の黒木喬氏著「明暦の大火」が詳しいので、それに基づいて情況をかいてみます。
なお、講談社現代新書「明暦の大火」は新刊はありませんでした。図書館で借りて読みました。
【明暦の大火は三ケ所から出火】
「明暦の大火」は、明暦3年(1657)1月18日から19日(太陽暦では、現在の3月2日から3日)にかけて、発生しました。
明暦の大火は「振袖j火事」とも呼ばれることもあって、一ケ所から出火したように考えられがちです。
しかし、実際には、3ヶケ所から出火しています。
3ヶ所の出火場所と出火時間そして延焼の様子は、黒木喬著「明暦の大火」によると次のとおりです。
【第一出火場所は本郷の本妙寺】
①1月18日午後2時 本郷丸山の日蓮宗本妙寺から出火。
1月18日、本妙寺から出火した火災は、折からの北西の強風により飛び火がしきりに舞い上がり、湯島から駿河台方向に燃え広がる形勢であった。
湯島方面へ延びた炎は、湯島天神社、神田明神社などを焼いた。炎はこの付近から南に進み駿河台の諸大名の邸宅を次々に焼き払い、鎌倉河岸に燃え広がった。そして神田多町、須田町などの青物店が灰となった。
神田明神から烈風により乱れ飛んだ火は、堀丹後守などの大名屋敷を焼いた後、神田川南岸一帯を焦土とした。
駿河台の火は、二手に分かれ、一方は誓願寺から迂回して進み、もう一方は須田町から鍛治町、白銀町とまっすぐに南下した。夕刻から風が急に西へと変わり、鎌倉河岸の火は神田橋には移らず、遠く隔てた鞘町へと飛び火し、東に延焼して川を越え、茅場町まで延焼した。火は東方向にも拡大し、八丁堀まで達し、町奉行の同心屋敷を焼き尽くした。
さらに、霊巌寺のある霊巌島へと延焼し、霊巌寺に逃げ込んだ9600人余の生命を奪った。霊巌寺の火は、飛び火によりはるか海を隔てた佃島や石川島にまで達した。
隅田川を隔てた向島八幡宮も火の粉をあびて倒壊した。
火炎は強い西風にあおられて、吉原もあっという間に灰燼に帰し、さらに西の堺町に飛び火した。西本願寺では450人余がなくなった。
このころ、火に追い立てられた群衆の巨大な流れは浅草に向かって殺到した。その時、突如として浅草門が閉ざされた。小伝馬町の囚人が牢を破って逃げたといううわさが流れたため警戒のため門をしめたと言われている。このことにより、浅草橋門で人々が逃げ惑っている時に櫓に火がついて倒壊した。
さらに、一時おさまっていた柳原の火が再び燃え始め誓願寺に飛び火した。誓願寺から、近くの大名小路に延焼し、同時に数十の寺院に延焼拡大し、小伝馬町方面からの火と合流し、数万の群集を飲み込んでいった。
火はさらに浅草御蔵も焼いて、延長約5.3キロメートルに及ぶ大火は、翌日の午前2時過ぎにようやく鎮火した
【第二出火場所は小石川伝通院前】
②1月19日正午ごろ、小石川新鷹匠町(文京区小石川3丁目)から出火。
前日の大火に続いて、小石川の新鷹匠町付近の大番衆与力の宿所から出火した火は、水戸藩の屋敷を焼き、堀を越え飯田町から市谷、番町へと延焼拡大した。
この火は、江戸城内に入り やがて、江戸城の天守閣にも正午から午後1時ごろに燃え移り焼失した。
さらに午後4時ころには常盤橋内の大名屋敷などがいっせいに燃え上がった。
午後4時ころ、北風が西風へと変わり、江戸城西の丸、紅葉山、御三家の上屋敷は焼失を免れた。
しかし、火は八重洲河岸から中橋方面に延焼していき、京橋が焼け落ちて逃げ場を失い、この京橋周辺では2万6千人がなくなった。
【第三出火場所は麹町の町家】
③1月19日夜、麹町(千代田区麹町3丁目)から出火。
1月19日夜に入って、風向きが北から西へと変わり始めたころ、麹町5丁目の町家から出火した。火はまたたく間に延焼し、松平出羽守直正政などの大名屋敷を焼失した。日吉山王神社も燃えた。さらに、伊井家や浅野家、黒田家などの大名屋敷が約50ケ所灰燼に帰した。さらに西の丸下の屋敷や愛宕山の下にある大名屋敷も多数焼け、その数は85ケ所にたっした。そして、増上寺も午前2時ごろ焼失した。そして、火は芝浦の海岸まで燃えて海に出たため鎮火した。