それは、本郷丸山の本妙寺の振袖供養の火から出火したと伝えられているからです。
それでは、振袖供養とはどういうお話だったについて、矢田 挿雲が中公文庫新版 「江戸から東京へ〈1〉麹町・神田・日本橋・京橋・本郷・下谷 」 の中に詳しく書いていますので、それに基づいて書いてみます。

4代将軍徳川家綱の時代の承応3年(1654)春3月、麻布百姓町質商遠州屋彦右衛門の一人娘梅野(16歳)が、母に連れられて、菩提寺の本妙寺に参詣したついでに、浅草観音にまわるつもりで、上野山下まで来たところ、上野山内に姿を消した寺小姓風の美少年に恋したのが発端です。
美少年は、紫縮緬(むらさきちりめん)の畝織(うねおり)へ荒磯と菊の模様を染めて、桔梗の紋をつけた振袖を着ていました。梅野は母親にねだって寺小姓が来ていた通りの振袖を縫ってもらいました。
梅野は、枕に鬘(かつら)をつけて、それを振袖で包んで夫婦遊びをしていました。
両親は八方へ手分けをして、その美少年を探しますが見つかりませんでした。
そして、梅野は恋わずらいにより翌年の承応4年(1655)1月16日、17歳でなくなってしまいました。
遠州屋では、梅野の棺を振袖で蔽(おお)って、葬式をすませ、振袖は本妙寺に納めました。
本妙寺では葬儀が済むと、古着屋へ振袖を売り払いました。
《昔は、争議には亡くなった人が生前一番愛用していた衣類を棺に掛けて行われるのが慣例で、埋葬の後にはその衣類が古着屋に売られ、墓の穴掘り人側の浄めの酒代にされたそうです。》
その振袖が、翌年の梅野の祥月命日に、上野山下の紙商大松屋又蔵の娘きの(17歳)の葬式に、再びその振袖が本妙寺に納まり、また売り飛ばされました。
すると翌年の同月同日に、本郷元町の麹商喜右衛門娘いく(17歳)の葬式に三度本妙寺に戻ってきました。
さすが、住職もおじけをふるって、今度は古着屋の手へ渡すことを思いとどまり、娘三人の親が施主となって、明暦3年1月18日、本妙寺内で大施餓鬼を行い、振袖を火に投じて焼くことにしました。
振袖を火に投じると一陣の竜巻が、北の空から舞いさがり、火のついた振袖がさながら人間の立った姿で、80尺の本堂真上に吹き上げたため、雨のように降る火の粉によりたちまち本堂から出火しました。
以上が「振袖火事」の伝説です。
黒木喬著の「明暦の大火」によると
この話は真実ではないそうです。だいいち振袖伝説がいつごろどのようにつくられたのかはっきりしないそうです。
ただ、明暦の大火の25年後の天和2年(1682)に起きたいわゆる「八百屋お七の大火」の事件が影響を及ぼしていると書いています。
つまり、「八百屋お七の大火」より明暦の大火ははるかに被害が大きいのだから、なにか変わった因縁話があったにちがいない。いやないほうがおかしい。おそらくこのような心理が民衆に働いたのではなかろうかと書いています。

