今日は、その囚人解放について書いていきます。
言い伝えによると、天正年間(1573~92)に常盤橋外に牢屋ができて、それが慶長年間(1596~1615)に小伝馬町に移されたとされています。
それが小伝馬町牢屋敷で、明治8年(1875年)に市ヶ谷監獄が設置されるまで、江戸時代を通して使用されました。
【石出帯刀独断で切放】 明暦の大火の第一日目1月18日に、本郷から出火した火事が、牢屋敷に近づくと、時の牢屋奉行の石出帯刀が囚人解放(切放)を行いました。
牢屋奉行とは、町奉行の配下で与力格の役職でしたので、囚人解放などの重要事項を決定する権限はありませんでした。囚人解放は石出帯刀が独断で行ったのでした。
石出帯刀は、戻った者は罪一等を減じ、逃げたものは雲の果てまで追いかけさがしだす。浅草の善慶寺に3日後に集まるようにといって囚人を解放しました。
黒木喬著「明暦の大火」によると
「石出勘助の書上」という記録では、解放された囚人は120から130人で、指示通り19日に全員が善慶寺に戻ったと書かれているそうです。まさに石出帯刀が期待した以上の結果と言えます。
しかし、黒木喬氏は、解放された囚人は数百人で、何人かは戻らなかったのではないかとも書いています。
【現代まで続く切放】
いずれにしても、石出帯刀の処置は、事後、上司から高く評価されたそうです。
この制度は、その後、正式に取り入れられて、切放後3日以内に北町・南町奉行所または本所回向院に戻れば、罪一等を減じ、戻らなければ、遠島ということになったようです。
切り放しは、江戸時代、公式的には12回(もしくは14回)行われています。
さらに、この石出帯刀が初めて行った囚人解放(切り放しは)、現代の法律(刑事収容施設法)でも、制度として残っています。以下刑事収容施設法に定められた切放の条文です。
(災害時の避難及び解放)
第二百十五条 留置業務管理者は、地震、火災その他の災害に際し、留置施設内において避難の方法がないときは、被留置者を適当な場所に護送しなければならない。
2 前項の場合において、被留置者を護送することができないときは、留置業務管理者は、その者を留置施設から解放することができる。地震、火災その他の災害に際し、留置施設の外にある被留置者を避難させるため適当な場所に護送することができない場合も、同様とする。
3 前項の規定により解放された者は、避難を必要とする状況がなくなった後速やかに、留置施設又は留置業務管理者が指定した場所に出頭しなければならない。
まさに石出帯刀が実行し指示した通りのことが現代の法律でも定められています。
上記の写真は、小伝馬町牢屋敷のあった場所にある大安楽寺(上段)と十思公園内の時の鐘(下段)です。
青印が大安楽寺です。その隣が小伝馬町牢屋敷跡の十思公園です。

